8 後輩がいやらしい妄想のネタにしているのは俺だけらしい
じいっと見つめ合うこと数秒。美沙緒さんは顔を赤くしている。俺は美沙緒の手をなるだけ優しく払いのけようとした。しかし美沙緒さんは、俺の手をぎゅっと握ってきた。
「先輩の手、あったかい」美沙緒さんは震え声でそう言い、俺の顔を真正面から見ている。
心臓が早鐘を打つ。どんどん体が熱くなる。いや、美沙緒さんとはそういうことを行動に移さないという約束だ。俺が破ってどうする。美沙緒さんはいままでお触りなしで頑張ったんだぞ、いろんなことを妄想しながら、それを何一つ行動に移さなかった。
美沙緒さんはとても理性的な人だということは分かっている。理性的だから、いろいろな妄想を実行に移さず、そして将棋はとても上達が早い。
握られた手の、美沙緒さんのそのひんやりとした肌にすこし驚きながら、俺は美沙緒さんの手を振りほどいた。俺はかなり、興奮していた。
「……あのさ」
俺は小さく口を開ける。美沙緒さんはびくりと、恐怖を感じた顔になった。
「俺だって、男なわけ。美沙緒さんが好きなわけ。だからそうやって、ずっと俺を変な目で見てるって話を聞かされてて、いきなり手を握られたら――なにをしたくなるか、わかんないよ?」
「……?」美沙緒さんは怯えながらきょとんとしている。俺は続けた。
「ここさ、俺んちだしさ、わりと家賃高いだけあって壁も厚いしさ、俺の家族は夜にならないと帰ってこないしさ、やっちゃおうと思えばなんだってできるからね? 怖くない?」
「……怖い? 先輩が?」
「そうだよ。俺だって男だよ。美沙緒さんが想像してるよりもっとひどいことをするかもしれない。暴力を振るうかもしれない。もっと言えば手籠めにするかもしれない。分かる?」
「先輩が……わたしを」
「美沙緒さんが俺をそういうふうに見ていることはとうに知ってるんだ。それを合意とみなしてそういうことをするかもしれないって考えたことはない?」
「……先輩が。先輩が……そういうことを」
俺はふとなんかで聞いた、「DV男は女に反撃されることを考えていない」という話を思い出していた。美沙緒さんをDV男に当てはめれば、俺は美沙緒さんの妄想に振り回されてクタクタの被害者で、でもDV被害者と違って俺は反撃のしようがあるのだ。そしてそれを、美沙緒さんは想像していないのだ。美沙緒さんが想像するよりずっとひどい方法で、反撃できるのだ。
美沙緒さんの表情が、急に曇った。
「……ごめん、なさい」
美沙緒さんは小声でそう言う。俺は美沙緒さんをじいっと見つめる。
「それが怖かったら、うちにはこないことだね」
「先輩は、いままでずっと、そう思っていたんですか?」
「え?」唐突に訊ねられてアホの顔になる。美沙緒さんは言う。
「先輩は、いままでずっと、わたしを、そういうふうにしてしまいたいって、思ってたんですか? 本当に?」
「いや、さすがに将棋部の部室で手籠めにすることは考えたことはないよ。ここが俺んちだからだ。日下部先生も入ってこないしなんかの間違いで幽霊部員の先輩がくることもないし、騒ぎを聞きつけた演劇部衣装班が飛び込んでくることもない。だいいち学校でことに及んだらそれはなんだっけ、秋田県の中高生に伝わるフォークロア……」
「南中事件」そうそれだ。なんで知ってるの美沙緒さん。
「そう南中事件。恥ずかしいことになったとき学校じゅうに知られるわけでしょ。ここでならそういうこともないわけで。だからさ、お願いだから俺を誘惑しないでくれるかな。美沙緒さん、シーラカンスみたいなこと言うけど、すっごい可愛いんだよ? 男だったらだれでもみんな、美沙緒さんの写真を見て幸せな気分になれるくらいには」
「あ、……う。先輩、わたしのこと、嫌いになりましたか……?」
「好きだ。大好きだ。でもそれは部活の後輩を可愛いって思ってるという意味でね。美沙緒さんと、そういうことをしたら、もう引き返せないってことは分かってる。だから異性としては見ていない。後輩として見てる」
「後輩。後輩……」
「俺はさ、美沙緒さんにひどいことをしたくないんだ。かわいい後輩だから。優秀で、俺なんかあっという間に置いていく、すごく賢い出来のいい後輩だって。だから、お願いだから――それ以上の感情を持たせないでくれないかな。とりあえず落ち着いてお茶を飲もう。ほら、プリンも食べな」
「あ、はい。いただきます」
美沙緒さんは値引きシールの張られたプリンのフタをとり、スプーンで食べ始めた。俺は深々とため息をついた。
一瞬美沙緒さんをそういう目で見てしまったというひどい罪悪感が、塊になって心にこびりついている。美沙緒さんは小さな口でぱくぱくとプリンを食べ、ふうふうと熱湯玉露を冷ましてずずっと飲んだ。
「わ、おいしいお茶。こんなにアツアツで淹れてあるのに」
「ははは……これ、うま味調味料が入った、いわゆる熱湯玉露ってやつだから。それを知った上でもうひと口飲むと、ぜんぜん味が違うよ」
「……ほんとだ。味の素の味する」
美沙緒さんはそう言い、ふふふと笑った。
「ごめんなさい」少し恥ずかしそうな笑顔で、美沙緒さんは謝った。
「大丈夫。俺はもう気にしてないよ」嘘だ。まだ美沙緒さんをそういう目で見てしまったことをひどく悔やんでいる。せめてそれを気取られないようにしたい。
「美沙緒さん、俺みたいなやつじゃなくてさ、もっといい彼氏探すとかしたほうがいいよ。俺は美沙緒さんより先に学校からいなくなるわけだし、美沙緒さんとは釣り合わないよ」
「でも。わたし先輩が好きなんです。先輩だけなんですよ、いやらしい妄想のネタにしてるの」
堂々と宣言された。はあ……。なんで俺なんだろう……。
「なんで俺なの? いや部活紹介で荒ぶっちゃったのは分かってるけど」
「従兄がいるんです。わたしに本を貸してくれたりした従兄が」
「貸してくれた本って、あのえっちなラノベ?」
「そうです。あのシリーズ、従兄の本棚からごっそり借りてきたものなんです。小さいときから、わたしは従兄がずっと好きで、あの本の話みたいに気持ちよくなりたいって思ってて」
なかなかヘビーな告白である。小さいときっていくつくらいの話なんだろうか。
「でもその従兄、この間すごくきれいなお嫁さんと恋愛結婚して。六月には挙式で」
美沙緒さんは、懐かしいものを思い出す顔で、そうぽつぽつ喋った。
「従兄からしたら、わたしなんてただの本家のチビなんだろうなって。結局好きだって思ってもらえたことなんて一回もなくて。従兄はもう従兄のお嫁さんのものだから、従兄を変な目で見るのはやめようと思ったころに、従兄よりカッコイイひとが出てきて。それが先輩で」
「お、おう……」
美沙緒さんの従兄がどんな人かは知らないが、美沙緒さんの表情は切なく懐かしいものを思い出す顔だった。その、大好きだった従兄の代役に選ばれたのが俺ということに、俺は安心して、でもちょっと寂しく思った。
「わたし、小さいころは家の中のことしか知らなくて、ときどき家にくる従兄がすごくカッコイイと思ってて。でもいま思うと先輩には及びもつきませんね。先輩は最高です。先輩となら、どんな人生の荒波も乗り越えていける気がします」
そ、そんな生涯の伴侶みたいな扱いをされても困る。冷めてしまった熱湯玉露をすすり、
「美沙緒さん、プロポーズみたいなこと言うけどさ、本当に俺でいいの? もっとカッコイイやついっぱいいるじゃん、うちの学校……」と答えると、美沙緒さんは泣き出しそうな顔になった。美沙緒さんは必死で涙をこらえる表情をしながら、
「だって、先輩みたいにわたしのことを心から心配してくれる人、ほかにいないんです。っていうかクラスの人に気味悪がられたくなくて、無言で読書してる人になってるんです、わたし……中学校とか小学校とか、地域で決まるじゃないですか。わたしの家、でっかい開業医で……ランドセルだってみんな指定のナイロンのやつを背負ってるなか私だけ革のごついやつだったし、中学でも春野の家は金持ちだ、みたいに言われて嫌だったし……きっとクラスで人気者になろうとしたら、ぜったいそれで悪口言われると思うんです。先輩だけが、わたしを平等に扱ってくれる。クラスメイトと仲良くなれたことが、生まれてこのかたいっぺんもなくて」
美沙緒さんはそう言うと、かしかしとかわいい服の袖で目のあたりをぬぐった。
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