5 後輩は俺と背中のほくろの数えあいっこするのを想像しているのが楽しいらしい

 ひどい雨だ。東高のグラウンドを一周するように植えられている桜はすっかり散っている。もうすぐ五月の連休。それが終われば中間テスト。


 四月末の将棋部は、相変わらずのどかに将棋を指すだけの部活である。ただし俺は性的な目で美沙緒さんに見られている。美沙緒さんは俺の顔をちらりと見る。俺は長考するふりをして、美沙緒さんを観察している。


 というか、美沙緒さんの成長が著しすぎて、俺では勝負にならんのである。もしかしたら美沙緒さんはちょっとした天才なのかもしれない。俺を性的な目で見ながら将棋を指して、俺をここまで困惑させるとは。


 まあ俺の棋力なんてたかが知れている。美沙緒さんが俺より上手くてもおかしいことはなにもない。後輩に追い抜かれるのってこういう気分なのか。とりあえず棒銀で突破を目指す。銀損でも飛車を成りこめれば一気に勝勢に持ち込めるはずだ。銀を進める。


 美沙緒さんは俺の顔から盤に目を移して、首をかしげてしばらく考えている。一分ほど考えて、銀の進路を妨害する手を指してきた。紐がついているので簡単には突破できない。


 もう投了してぇなー。少し考えると、銀と飛車だけでなく角も協力できることに気付いた。角を協力させてみると美沙緒さんはまたその進路を妨害してきた。


 きょうは珍しくちゃんと将棋を指しているぞ。俺がそう思ったそのとき、美沙緒さんが唇を少しゆがめて、


「セッ●スしないと出られない部屋……」


 と呟いた。珍しくちゃんと将棋を指しているのかと思いきや、頭の半分は下半身だった。きっと美沙緒さんは左脳で将棋を、右脳で下半身を考えているに違いない。


 セッ●スしないと出られない部屋というのは薄々ながら知っている。ツイッターを見ていると同人作家さんが時々話題にする、二次創作にありがちなシチュエーションだ。なぜにいま、美沙緒さんがその言葉をとなえたのか。俺はぞくりと粟立った。


 まさかマジで実践レッスン始めちゃう気なんだろうか。あれだけリアルに行動したらだめだって言ったのに、マジで俺はいま、貞操の危機なのだろうか。


 いやいや美沙緒さんはただの考えていることが漏れがちなスケベで、実際に行動する気はないはずだ。自分で処女って言ってたんだから痛いのは嫌だろうし。


 しかし美沙緒さんの目は鬼気迫る輝きを放っている。


「あの。先輩の手番です」


「あ、ご、ごめん」


 盤を見る。さっぱり集中できない。なにか違うことを考えよう。


「み、美沙緒さんは……初めてきたときから駒の動き知ってたけど、どこかで指したことあるの?」

 そう訊ねると、美沙緒さんは頷いた。


「小さいころ弟と指してました。ほら、駒に動きの書いてある、子供向けの将棋セットあるじゃないですか。あれです。すぐ弟に勝てなくなって諦めちゃったんですけど」


 美沙緒さんより強い弟さんってどれくらい強いんだろう。


「まあ、わたしがあんまり弱いから弟もすぐ将棋に飽きちゃって、将棋セットは近所の幼稚園がおもちゃの寄付を募っていたので、それに出しちゃったんですけど。親も、頭を使うゲームをやらせたかっただけで、結局タブレットを買い与えて数独とかクロスワードとかやらせたんですけど、なんだかんだ弟は何やっても要領がいいんですよね。賢いし」


 美沙緒さんは、そう悲しげにつぶやいた。


 そのつぶやき方は、いかにも愛情を受けないで育った、という印象だった。美沙緒さんの親御さんは、美沙緒さんの弟ばかり可愛がって、美沙緒さんに愛情を注がなかったのかもしれない。美沙緒さんの孤独を思うと、俺は胸が痛かった。


 しかし胸を痛めている場合ではない。ここは現状「セッ●スしないと出られない部屋」だ。


 ドアの取っ手に手をかけた瞬間、美沙緒さんが襲ってくるのでは、という恐怖を想像すると、怖くて仕方がない。俺だって俺のタイミングってものがある。それは少なくとも今じゃない。


「あの。先輩。手番なんですけど」


「あっごっごめん、変なこと考えてた。えーと、えーと」


 しばらく盤を見渡す。美沙緒さんが攻勢に出ている。玉の早逃げ八手の得。俺はスッと玉を逃がした。


 あ、待てよ。これ、「手番を渡す」ってやつじゃないのか。美沙緒さんがますます攻撃してくるんじゃないのか。案の定、美沙緒さんが次に指した手は飛車を進める強気な攻めの手で、俺の変な囲いは崩壊しつつあった。


 せめて先輩とか日下部先生とか白河先生が来てくれたらあらぬ心配をしないで済むのだが。


 美沙緒さんが指した初心者とは思われぬ過激な攻めの手を、俺はどうしのいだものか考えた。攻めに繰り出した銀を引いて守りに利かせるべきか。しかし守ってばかりでは勝てないのが将棋だ。将棋は決定的に勝ちと負けがある。攻めなければ負けるのだ。


 それでもいい手を思いつかず、無難に歩を打って飛車を追い返すことにした。


 しかし美沙緒さんの次の手は、その歩の横にいる厚みを作るために繰り出した歩をヒョイととってしまう手だった。ウグウーッ! オークに拷問されているビキニアーマーの女戦士みたいな悲鳴が出そうになる。歩切れでもう防御のしようがない。防御手段がなに一つない! そして俺の股間も、防御手段がなに一つない! 残念!


 結局そのあと俺の自陣は見事に切り崩され、ああこれは三手詰めだ、というところにきたので、「負けました」と素直に言った。美沙緒さんも三手詰めに気付いていた。どれだけ上達が早いの。俺は先輩として情けないよ。


「すごいなあ美沙緒さんは。上達が早いね、向いてるんだと思うよ」


「向いてないですよ。弟にすら勝てなかったんですから」


 美沙緒さんは恥ずかしそうにそう言い、駒を並べ直した。


「うっかりミスも随分減ったし、俺より上手いんじゃないの?」


「どうでしょうか。まぐれですよ」

 俺は美沙緒さんの自己肯定感の低さが気になっていた。こんなに可愛いのに可愛いことをアピールする気もないし、なにを褒めても喜ばない。嬉しそうな顔をしたとしても、「まぐれですよ」と、嬉しい顔を打ち消すようにそう言うのだ。


「美沙緒さん、自分を卑下するのはよくないよ」


「はあ」よく分かっていない返事。美沙緒さんはどうしたら褒められて喜ぶのだろうか。


「美沙緒さんは、何をしてるときが一番うれしい?」


「先輩と背中のほくろの数えあいっこしてるのを想像してるときですね」


 俺は牛乳を口に含んでいなかったことに感謝した。背中のほくろて……。


「それはうれしい時なんじゃなくて『楽しいとき』、なんじゃないの?」


「それを言ったらなにかをしていてうれしいとき、っていうのは難しいですよ。楽しいときならいっぱいありますよ、先輩を極太ディルドつきペニパンで犯してもうやめてって言っても容赦なしで攻め立てて先輩を屈伏させるのを想像してるときとか、逆に先輩とあまあまとろとろらぶらぶえっちしてるのを想像してるときとか」


 いや、美沙緒さん表現がストレートすぎやしないか。どこでそういう知識得るの。でもまあ美沙緒さんは結構なツイッタラーのようなので、ちょっと十八禁の絵師をフォローすればこれくらいの知識は余裕で入ってくるだろう。センシティブな画像というやつだ。


「……休憩しよっか。甘いもの飲みたくない? ちょっと買ってくるけど」


「それよりなら先輩の飲みさしのイチゴ牛乳が飲みたいです」

 なぜだ。間接キスしたいのか。とにかく俺は部室を脱出し、イチゴ牛乳とミルクティーを買って、部室はどうなっているか想像した。戻ったら脱いでるとかそういうことはなかろうな。


 部室に戻ると、美沙緒さんは真面目な顔で、手筋の部分図問題を解いていた。


 よかった。なんちゃらしないと出られない部屋というのは俺のただの悪い想像でしかなかった。美沙緒さんは真面目なひとだ。


「あ、先輩。ホントに飲みさしのイチゴ牛乳でよかったのに。唾液交換したかったのに」

 唾液交換て……。俺は、美沙緒さんの顔をまじ、と見た。


「美沙緒さん、もっとうれしいこと考えない? 美沙緒さんはもっと幸せになるべきだ」


「そう言われたって。先輩をオモチャにするのを想像するしかたのしいことないです」


「楽しいことじゃなくてさ。一緒に、うれしいこと見つけようよ。ね?」


 そう言った瞬間、美沙緒さんは表情を、発情期の猫のそれに変えた。

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