2 後輩は怪我して弱った俺がいいと思っているらしい
六時間目の体育の授業で、俺は見事に足首をひねってしまった。
ひねったところはじわじわと熱い。保健室の先生――養護教諭というのが正式名称だが、しかし保健室の先生と言った方がロマンがある――は、氷嚢を持ってきて俺に渡した。俺はそれで、ひねった足首を淡々と冷やす。
「うーん、あんまりひどいなら無理しないでお家帰ってお医者様に診てもらったら?」
粋な年増、といった印象の保健室の先生がそう言ってくる。俺はへへへと苦笑して、
「家に行ってもだれもいないっすね……うち、社畜の共働きなんで」と、事実を述べる。
粋な年増の保健室の先生――白河史というらしい――は、ちょっとなまめかしい表情で、
「大変だねえ君も。部活もワンオペで後輩ちゃん指導してるんでしょ? いま級位どれくらい?」と、あまり整頓されていない戸棚から湿布を探している。
「いや、級位とかよく分からなくて……アマ初段はめちゃめちゃに遠い、くらいしか」
「そっかー。詰将棋は何手詰めまでイケる?」
「ヒントありで頑張れば五手詰めまで解けますね」
なんで白河先生はこんなに将棋の話をしてくるんだろうか。白河先生は俺に湿布を渡しながら、「それならもうアマ初段はそんなに遠くないんじゃない?」と、気休め的なことを言ってくる。
「いやあ……あ、それより……変な話、訊いていいですか?」
「変な話?」いぶかる白河先生に、俺は訊ねた。
「部活の後輩の春野美沙緒さん、なんかエロいラノベ読んでたんですけど、その……女の子も、そういうエロいので興奮したりするんです?」
白河先生はポカンとした顔で俺を見て、それからしばらく考えて、
「まあ、それはわりと普通だと思うよ。性欲は女にもある。それでエロいラノベってどんなの?」と、身を乗り出してきた。そこは身を乗り出して訊いてくるところなんだろうか。
「その……ビキニアーマーの女戦士が、オークに捕まってえっちな拷問されるやつ……」
「そんたのエロいうちに入んねーべした。エロゲのノベライズとかヨォ、ネット発のエロラノベとかヨォ、そういういんたのをエロいラノベって言うんでねっか」
「なんなんですその口調は」
「すまん興奮してお国言葉が出た。お米はいいぞお米は」白河先生は秋田県人だと後で知るのだが、それはともかく、エロいラノベというのはいろいろたくさんあるのだということを聞かされてしまった。
「……なに、後輩ちゃんがそんなの読んでてショックだった?」
「ショック、っていうか……なんていうか、もしかして美沙緒さん、むっつりスケベだったりするのかなあとか思っちゃって……」
「むっつりスケベかぁー。でも性欲があるのは男女問わず普通だと思うけどな」
そう言うと、白河先生は時計をちらっと見た。
「あ、もう授業終わるね。保健室にも掃除当番来ちゃうけど大丈夫? えーっとね、今週は一年A組の三班」
一年A組までは分かるが具体的に三班というのがどういう構成なのかを知らないので、俺はとりあえずベッドを借りて横になることにした。掃除をサボれるのが嬉しくて仕方がないのだが、しかしどうやって帰ろう、という問題が発生していた。俺は自転車通学なのだが、このずきずき痛む足首で、まともにペダルを漕げるんだろうか。
……調子がよくなるまで、部室にでもいるかぁ。
「失礼しまーす」明るい声が響いた。掃除当番の一年A組の三班がやってきたらしい。がやがやーっと入ってきた五~六人の一年生たちは、保健室を隅から隅まで箒をかけて、雑巾がけもして、それからバラバラ帰っていった。
「……あの、先輩?」
――う。美沙緒さんだ。美沙緒さんに気付かれたんだ。美紗緒さん、一年A組の三班なのか。
「先輩、怪我したんですか? 大丈夫ですか?」
「う、うん、大した怪我じゃないし、部活やってるうちに治まるよ」
美沙緒さんはカーテンを開けて入ってきた。さすがにベッドに入ったりはしないが、うるんだ眼で俺を見つめている。
「怪我して弱った先輩、いい……」
また心の声がダダ漏れになっているぞ美沙緒さん! そう言ってやりたかったが美沙緒さんがあまりに可愛いので言葉に詰まる。美沙緒さんは俺をじいーっと見て、ほぅ、と息を吐きだした。
そこで頑張って言ってみる。
「あ、あのさ。なんで怪我して弱った俺がいいわけ?」
「ふぇっ?!?!」
美沙緒さんは驚愕の表情をした。どうやら口に出したと思っていなかったようだ。心の声がダダ漏れになっていることに気付いていないのである。美沙緒さんはかあーっと赤面して、ばたばたばたーっとベッドを囲うカーテンから出ていき、いなくなった。
「どうしたー? なにバタバタしてる?」と、どこかに行っていたらしい白河先生が戻ってきた。俺はことの顛末を、ところどころボカしながら説明した。
「南中事件にはならないで済んだ、ということね」
「南中事件?」知らないワードが出てきた。白河先生ははははーと笑って、
「いやぁね、私の田舎の秋田で中高生に伝わるフォークロアなんだけど、どっかの南中学校で、保健室でことに及んだやつがいて、挿し込んだものが抜けなくなって先生に見つかり、救急車で運ばれた、っていう事件、いや伝説のことだよ」と、おかしそうに口をとがらせた。
なんだそれ。秋田県、どういうフォークロアが伝えられてるんだ。
そう思っていると、白河先生は一転真面目な顔で、
「自分には全く関係ないと思ってる?」と訊ねてきた。
「いや、そりゃあ……そういうことするやつって一部のキラキラしたやつとか不良とか、ってイメージで……」
素直にそう言うと、白河先生はちょっと心配そうな表情で、
「そうとは限らないよ。それに同意なしでなにかされる可能性だってあるんだよ。女子だけが被害者とは限らないんだよ。女子から強引に求められて強引にそういうことになって、トラウマになっちゃってる男子だっているんだ。だから、春野さんとどういう関係になりたいか、しっかり考えた方がいいよ。だから日本の性教育は遅れてるんだ。男子は外でサッカーしてなさいだけで済まされないんだっつうの」
と、長台詞を熱っぽく唱えた。
俺は美沙緒さんと、ただの先輩後輩でいたいのだが。それがダメなら、清いお付き合い、くらいの関係でいたいのだが。
まだ若干足首が痛む。白河先生は教室に俺のリュックサックを取りに行ってくれたようで、ちゃんと課題のプリントが入ったリュックサックが保健室のソファにちんまりと置かれている。
「どうする? 部活行く?」
「うーん。俺チャリ通なんすよ。痛みが引かないことには帰れないんで、とりあえず部活いきます」
「春野さんとよく話し合うといいと思う。こういうことはされちゃいやだ、っていう話を」
白河先生の言葉を噛みしめつつ、保健室を出て部室棟に向かう。将棋部の部室は一番奥だ。ドアを開けると美沙緒さんが部費で買ってもらった詰将棋の本を睨んでいた。
「……あ。先輩、お疲れ様です」
「お、お疲れ様。詰将棋勉強してたの?」訊ねると美沙緒さんは首をかしげた。
「詰将棋って、まあ一手詰めは分かるんですけど、三手詰めになると相手の駒の動きも考えなきゃいけないじゃないですか。どういう理屈で考えればいいんですか?」
「詰将棋の玉のほうは、いちばん手数が長くなる方法で王手から逃げるんだよ」
ああ、美沙緒さんはかわいい。むっつりスケベだなんて思いたくないし、弱った俺を見て興奮する猟奇趣味があるなんて思いたくない。ましてや、そういう行為に及びたいなんて、みじんも考えられない……。
「あの、」と、美沙緒さんは口を開いた。
「なに?」と訊ねると、美沙緒さんは少し悲しい顔で、詰将棋の本を机に置いた。
「わたし、先輩が好きで将棋部に入りました。なのに恥ずかしいことばかり言ってしまって。わたしはスケベなんです。スケベニンゲンなんです」
美沙緒さんのあらぬ方向の告白を、俺は黙って聞かざるを得なかった。
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