第92話 入試発表と矢野先輩

かなちゃんが病院から帰って来てからはてんてこ舞いだった。


「かなちゃ~ん、おむつ、おむつ~」


「あれ~? ミルクはどうやって作るんだったったけ?」


「お母さ~ん、ヒロ君、ミルク吐いちゃったよ~」


「かなちゃ~ん」


「要~」


「お母さ~ん」


「かなちゃ~ん」


「要~」


「お母さ~ん」


僕たちは入れ替わり立ち代わりでかなちゃんを呼んだ。


きっとかなちゃんは30分毎には僕たちの呼び声を聞いていただろう。


「かなちゃん!」


僕が呼んだ時、きっと限界に来ていたんだろう。


「今度は何!」


とかなちゃんまで大声を出して答えた。


それに僕たちみんなが一斉に、


「ヒロ君が笑ってる~」


とほんわかとなったので、

かなちゃんは深いため息をついて、


「あのね、この年の赤ちゃんって

まだ笑う筋肉が発達してないから笑わないんだよ?


ガスがお腹を通過するときの表情が笑ったように見えるからきっとそれだね!」


と、もう自分の事は呼ぶな!という様に僕たちに投げかけた。

それなのに、


「ヒロ君が笑った! ヒロ君が笑った!」


とそんなかなちゃんの苦労もよそに、

僕たちはヒロ君にメロメロになっていた。


その頃で11月、その頃は僕の受験も終盤に差し掛かり、

後は面接の後に合否発表を待つだけとなっていた。


発表は12月の半ば。

それまで緊張の日々を過ごしたけど、それだけではなかった。

11月から12月にかけては、

僕にとっては生まれて一番つらかった時でもあった。


それは12月には先輩の結婚式が控えていたから。


僕はカレンダーを見て、かなちゃんが赤丸を付けた

24日に目をやった。


どんなにこの月が来ることを恐れただろう……


今日まで、何度涙で枕を濡らしただろう……


奇跡が起こることを願っていた。

でも未だ奇跡は起こっていない。

そしてこれからも起こらないだろう。


先輩の意味深であり、理解不能な行動は、

未だに何だったのか分からない。


本当は僕が好き?と思ったけど、

それさえも未確認状態だ。


まさか僕の方からそんな事、

聞くわけにもいかない。


でも結婚式の準備が進んでいることを思えば、

僕の自意識過剰なのかもしれない。


先週末は先輩の式のリハーサルが行われたようだ。


かなちゃんとお父さんはそれに参加してきた。


詩織さんがとても綺麗だったと言っていた。

でも、先輩の事については何も言わなかった。


それでいいのかもしれない。

ここまで来ると僕はもう、

先輩の事を考えるのでさえも疲れてしまった。


きっと僕は先輩の式には参加しない。


でも先輩はそのことを知らない。

僕の両親でさえも知らない。

言ってないのだから……


きっとかなちゃんはドタキャンしても何も言わないだろう。

彼は僕の気持ちをよく知っているから……


もし僕が先輩の挙式に参加できるというのであれば、

僕は僕自身の精神を疑う。


僕にとって先輩は、

唯一の人であり、僕の絶対だった。


僕が永遠にただ一人の運命の番と認めるのは先輩以外いない。

きっと僕は生涯独身だろう。


それでもいい。


何も関係が始まらなければ、

辛い別れもない……


でも、きっと僕は永遠に12月が嫌いになるだろう。

それもイブという日が……


僕は24日に付いた赤丸をにらみながら、

毎日を生きた屍のように過ごしていた。


そんな12月も半ばまで来たとき、

朝早くおきると、僕に電子メールが届いていた。


アメリカの大学からだった。


「お父さん! かなちゃん!

返事、来た、来た!


どうしよう……


開けれない~~~!!!」


そう言うと、お父さんが僕の携帯を

僕の手からサッと取り上げ読み上げ始めた。


「……congratulations……」


というところだけが嫌に強調されて聞こえた。


「陽ちゃん,おめでとう!」


直ぐかなちゃんが言葉をかけてくれた。


「え? それって……」


「受かったんだよ!

受け入れが決まったんだよ!」


かなちゃんは手放しで喜んでくれ、

お父さんといえば、

僕の方を見ると、涙をダバーっと流して、


「嫌だー 行くなよ〜」


ともう家を出て行く事を考えて泣いていた。


僕はまだ実感がなく、放心状態だった。


「ね、ね、先輩も随分心配してたからラインじゃ無く、

直接伝えてあげたら?」


そういうかなちゃんの勧めで、

尋ねるには少し早い時間だったけど、

学校へ行く前に立ち寄ってみる事にした。


今朝も先輩から


“お早う”


とラインが入っていたけど、

いきなり訪ねて驚かせてやろうと思った。


その前に、やっぱり一番に報告するのは、

この受験で一番お世話になった城之内先生だと思ったので、

先輩の家に行く前に電話した。


先生が携帯に出ると、


「もしかして陽一君!」


と分かっているような口ぶりだったので、


「受かったよ~!」


と一言伝えた。


「おめでとう!

凄く頑張ったね!

陽一君は頑張り屋さんだから、絶対受かると思ったよ!


お祝いに食事に行こうよ!

24日は矢野さんの結婚式があるから、23日にどう?」


城之内先生のお誘いに、

二つ返事でお受けした。


城之内先生に発表を伝えた後は、

ルンルン気分で制服に着替え朝食を取ると、


「行ってきま〜す!」


と元気に家を飛び出し、エレベーターに飛び乗った。


先輩が住んでいる階に着くと、

僕は詩織さんとかち合わないか見回す癖がついた。


その日の朝もエレベーターから降りると、

さっと壁の影に隠れて、

詩織さんがいないかをチェックした。


先輩と一緒に部屋を出るシーンは少し僕のトラウマになっている。


その日は先輩はいなかったけど、

丁度詩織さんが出勤する所らしかった。


きっと彼女は僕の通学時間と通勤時間帯が同じころなんだろう。


何度かエレベーターでかち合った事がある。


そういう時は決まって挨拶をする程度だったけど、

時折嫌味とか言われるようなときもあった。


そういう時は、


“先輩と喧嘩でもしてるのかな?”


と思ったものだ。


詩織さんが僕の方に向かって歩いてくると、

僕は彼女に見つからない様に息を潜めて彼女が通り去るのを待った。


見つかってしまっては、

また浮気を疑われて追い返されてしまうかもしれない。


なぜそこまで浮気を疑うのか分からない。


婚約後の先輩は、挙動不審な態度を僕に示したことはあるけど、

詩織さんの前でそれをしたことは無い。


もしかして盗聴器を付けてる?と疑ったこともある。

監視カメラ?と疑ったこともある。


それ程、僕と先輩の事を彼女は疑っていた。


でも以前、街中で彼女が友達と買い物か何かをしているのを見かけたとき、

彼女が友達に言った言葉が凄く気になった事がある。


『新婚初夜までお預けなの……』


その時は何のことを言ってるのか分からなかったけど、

もしかしたら、彼らには夜の行為が無いのだろうか……


だから彼女は先輩の浮気を疑ってる?

外でやってるから自分とは……みたいな?


でも僕には分からなかった。

そんな盗み聞きしたような情報を確認するような手立てはない……


それこそ僕が先輩の寝室に忍び込んで、

盗聴器を仕掛けるしか手がない。


考えると自分がみじめになってしまうので、

先輩の夜の事情は考えないようにしているけど、

二人が一緒に早朝に部屋を出るシーンをみると、

嫌でも考えてしまう。


“でも今日は一人だ……

良かった……先輩はまだ家にいる……”


そう思いながら詩織さんの背中を見送った。


詩織さんがエレベーターに乗り、

エレベーターが下へ動き出すのを確認すると、

先輩の部屋へ急いで行き、

インターホンを鳴らした。


「はーい」


とインターホン越しに声がすると、


「先輩! 僕だよ!


話したい事があるんだけど、

入っても良い?」


そう声を掛けると、ドアを開けてくれた。


「陽一君、今朝は返事なかったからどうしたんだと思って居たんだよ〜


もう直ぐ冬休みだよね。 学校の方はどう?」


先輩が尋ねるのと同時に、


「これ見て!」


そう言って合格通知のメールが張り出された携帯を差し出すと、

先輩は目を丸々として、


「凄い!

陽一君! ついにやったんだね!」


と先輩も自分のことの様に喜んでくれた。

でも、直ぐに落ちたような顔をして、


「それで…… アメリカへは何時発つの?」


と尋ねてきた。


「そうだね、まだ今日発表をもらったばかりだから、

両親ともまだ詳しいことは話してないんだけど、

とりあえずは、卒業式が終わってからってなると思うけど、

一度向こうへ行ってアパートなどの手続きなど終えてこようかなと思って……


だから、この冬休みの間にでも行こうかなって思ってるんだけど、

やっぱり先輩の式が終わってからかな?


お正月を挟んでいってみようかなって僕自身は思ってるんだけど……」


「アメリカへ行ったらやっぱり帰ってくるのは……」


「そうだね~ お正月くらいには帰れたらいいんだけど、

こればっかりはね~


悪く言うと、少なくとも4年は帰ってこれないだろうね~

それに院に進んだりとかすると、

もっとかかっちゃうな~」


「やっぱり行っちゃうんだね……」


そう言った後の、先輩の表情が凄く印象的で、

僕は暫くその時の先輩の顔が忘れられなかった。

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