落下

辻井紀代彦

本文

 幼い頃その男は、氷柱が落ちるとき、氷柱はその身を真っ黒に染めて煌めきながら砕けるのだと、根拠もなく信じていた。

 今の妻とは、そういうことが流石に勘違いであると知れた学生時代の、冬頃に知り合った。しかしながら彼は年下のいじらしい恋人にすっかり上せて空回りを重ねたのちに、若い恋人同士の普遍的な帰結へと至ったのである。

 つまるところ、彼女とは元の鞘に収まるという形で結婚した。その後は殊更語るような大ごとは起こらず、今の今まで当たり前の夫婦の生活を営んでいた。

「あいつは、どうしてるかな」

 男は真白く染まったところに浮かびあがる破線のような雪解けの跡を眺めながら、呟くように言った。

「それは、あなた、あいつと言ってもね」

「ほら、あの──娘ンとこの上のさ」

「そんなのがいたかね」

 男は顔をしかめた。そして妻には伝わらないようでありながら鬱憤を晴らしうるだけの勢いのため息を吐き出し、道路の上を小気味よく跳ねる靴の音と共に、孫の仔細を自力で思い起こして説明を試みた。

 彼女は眉を曲げながらしばらくそれを聞いたのち、「ああ」と感嘆しながら大きく首肯を繰り返して了解の様子を示した。

「あたしもずいぶん、呆けてきたようね」

 男は一文字に引き結んだ口のまま、うん、と返事をしてから、あとは黙って足を進めた。

 事実、彼の妻は呆けていた。以前より男が聞いていた通り、何度も同じ話をするし、人の名前は言えなくなるし、料理などもままならない。認知症という病が表すいかなる例にも漏れず、だんだんと激しさを増す物忘れには、頭を抱えていた。

 呆けもひどかったが、それ以上に深刻なのは妻のメランコリーだった。彼女が未だ密かに抱えていた乙女の自覚が、若い頃痴呆と呼んでいたものに罹ったことで強引に引きちぎられたようにも思えた。ともかく、ものを忘れた後、彼女は決まって落ち込むのだった。

 この日も、男はしばし川沿いの雪景色を流し見したのちに、自身の細君の翳った表情を想像しながら、恐る恐る彼女の方を一瞥した。

「今年もよく積もったわね」

「去年は積もってないだろう」

「ああ……」

 普段より幾分かましであったものの、妻の目尻に、微かな哀しみの色が浮かんでいた。なにか、声をかけてやらなければなるまい、と男は考えた。しかしこうなるといつも浮かんでくるのは、勢い余ってどこかに道を外れていきそうな、若々しい蛮勇であることには閉口ばかりしていた。

 言わずもがな、それは彼が若かりし頃の妻にかけていた思いだった。

「ああ、だめだ……」妻が、うなだれるようにこぼす。

 やめてくれ、と男は返してやりたくなった。あの頃に比べれば、自分らの体は皺だらけになりすぎていた。

「大丈夫って。もう年食ったんだから、そんなこと、気にしなさんなよ」

「でも──」

 もごもごとなにかぼやく彼女に、二、三の激励を並べながら、男は頬をひっぱたく風の冷たさを感じた。寒々しくあおい斜陽の下で、なおも泣き崩れそうになる妻の背中を、無骨に乾いた手のひらで撫ぜる。そして続けざまに放つべき励ましの台詞を、刹那の間に思案した。

(このまま、死んでいくんだろうか)

 ふと、そんな考えがよぎった。葉を落としきった桜の並木が、図々しい死者の骨のように空間へ伸びている。男は、ハリにみなぎっていた自身の肉が、もうげっそりと垂れ始めているのを悟った。途端、雪の上で踊りだした介護心中のニュース画面を体の中から突っぱねるように目を閉じると、今度は瞼の裏で未だ彼の青春を支配するあの別れ際の情景が、背中を丸めて歩く二人の像と理不尽に重なっていた。

「死のうかしら」そのとき、彼女はそう漏らした。涙の跡が、陽を浴びて黄金色に煌めいていた。

「そんなこと言うもんじゃない」

 勢いのままに、彼は吐き捨てた。少女の涙の可憐さに、喉の底から引っ張り上げられたのもあった。

「馬鹿言わないでちょうだい。何回あなたにそういわれたか、知れたもんじゃないんだから……」

 感傷的な回顧を、男はすぐにやめた。改めて二つの憧憬を重ねれば、その有様は歪そのものだった。

(あのころとはちがう)

 若さという身持ちの軽い地位を喪失したことが、こんなに悔しいこともなかった。数十年にわたる同居の重みは、もはや自立する力を失った妻の分まで、凝りきった肩の上にのしかかってくる。

「死ぬまで一緒にいてやるって言ったんだから、おれは。何ができんとか、そんなこと、何も心配することはないのよ」

「そう、そうよね……」

 口に出してみてから、男は、その台詞が彼女と一度別れる前に伝えた言葉だったと想起した。そのナンセンスさに気づかなくなるほど鈍った妻の勘に奇妙で後ろめたい安堵を覚えながら、口蓋に貼りついたままの鍵カッコの中身を反芻していた。

 あのとき、彼は思春期特有の薄ら青い絶望感に苛まれたまま、その弁口を吐いていた。だからそれは、自分はきっと早く死ぬのだという事実を巧妙に仕組んだ逃げ道でさえあった。

 間もなく男は、むかし自分が抱えていた破滅的な思想をも想起し始めた。棘のように鋭い感情のぶつかり合いの中で敏感に研ぎ澄まされた感傷は、いつしか酒酔いのまどろみの中で封印されていたが、靄が乾いた寒空の下で晴れていくように、彼らは今再び男の心臓を支配し始めていた。

 だが自分らの衰えた肉体がその鋭敏な考えには符合せず、一層その有様を気味悪く炙り出している。

(どうしようというのだろう)

 藍色に覆われた天球を仰ぎ見、夕映えまで視線を下ろすと、異形の輪郭を閉じこめるように冷やし固める空気の抱擁を改めて肌に感じた。

「氷柱なんて、珍しい」

 不意に、妻の声が通り抜けていった。彼女の方を見やると妻は、ほうれい線をかすかに軋ませながら、家屋の軒下へと面貌を向けていた。たしかにその家の茶褐色の雨どいから、黄昏時の淡い闇を透かしながら濡れ煌めく氷柱が、二三垂れ下がっている。

 にわかに男の頭には、例の馬鹿馬鹿しい思い込みが立ち上った。ひとりでに喉まで駆ける失笑は、ゆらりと首をほぐしながら口元へと躍り出ていく。しかし彼は、ひとりで空虚な笑みをこぼしながら、ぼんやりと、今その一つが背景の仄暗さを映したまま、心得違いの情景の通りに落ちて粉砕されることを願っていた。

「あら」

 妻のしわがれた声が、再び寒空に放られた。

 脳裏から瞳孔まで意識を引っ張り上げて目前の景色を映せば、焦点は瞬間的に二三あるうちで最も細長い氷柱へと絞られる。氷柱は、一切たわみなく張り詰めていそうな空気の間を、すでに切り裂き始めていた。

「あっ」

 喉から、妻と同じような言葉が飛び出していく。刹那、その透明な針は遠くの陽光を受けて金色に煌めき、やがて、水になるかのように繊細な音を周囲へと揺曳させて、その身を粉砕させた。

「あら、落ちたわねえ」

「うん」

 光に溶かされたように男の唇は柔らかく動いて、息をのみこむ。

「縁起が悪いよ」

「どうして?」男が台詞を吐き捨てながら自ずと覚えた違和感を、妻は白い息と共に体現させた。「きれいだったじゃない」

 男は、氷柱の落下した箇所をまじまじと眺める妻の横顔を瞥見してみてから、仄かに瞼が剥かれるのを感じた。街灯のしたで妻の面皮に深く刻まれた無数の線が、男の網膜にはうっすら輝いて見えた。

「──そうだったかもしれない」

 当然のように「そうよ」と、どこか威丈高にのたまう彼女の口調が、年甲斐もなくかわいらしかった。

 彼女からすぐに目を背けると、やおら男の想念に暖房のよく効いた自宅の風景が昇ってくる。すると冷たい靴底を足裏にまとわりつかせておくのがだんだん億劫になってきて、妻の前で踵を返してやる。

「もう、帰ろう」

「そうね、寒いものね」彼女は安易に応じた。

 二人歩道で並ぶ頃には、こころなしかつま先を先ほどより高く上げて足を進める妻の唇から、聞き覚えのあるメロディーがもれだしていた。それが、昔彼女とよく聴いたドリス・デイの『ケ・セラ・セラ』であると知った時、頬の肉が優しく解れていっている自分に気がついた。

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落下 辻井紀代彦 @seed-strike923

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