唇はもう、

高村 芳

唇はもう、

 自分のあごを細い指がつたう感覚に、腹の奥がざわついた。驚いて思わず尻もちをついた僕の上にまたがり、笑顔を向ける彼女。薄い唇の間からのぞいた舌が、いやに赤く見える。

 放課後の教室で、部活動に励む野球部員のかけ声が聞こえる。人の気配はするのに、教室の中だけがやけに静かだ。自分の心臓の音だけが響き渡る。


「さがしたよ? ケイゴ」


 彼女の猫のように柔らかなブロンドの髪が頬をくすぐり、僕は顔を背けた。それが彼女は気に入らなかったらしい。顔を両手で挟まれるやいなや、半ば強制的に彼女の方を向けさせられた。鼻と鼻がくっつきそうになり、僕は思わず唾を飲み込んだ。


「きらいになったの? ワタシのこと」


 口調は幼気な乙女のふりをしているが、その目の奥には、新しいオモチャを手にした無邪気さをはらんでいる。僕の眉間のシワが深くなっていく一方だが、それを見た彼女はさらに楽しそうな表情になる。視線をそらそうとするが、スカートのプリーツから伸びる白い太ももが目に入りそうで逃げられない。


「ワタシ、キレイになったでしょ? テレビにもでれるくらい、いろんなひとからカワイイ、カワイイっていわれるようになったんだよ? あのときワタシがいったこと、おぼえてる?」


 やっと思い出してきた。五年前、大学三年生の秋に留学をした。たった半年ほどの短い留学。ホームステイ先を離れるとき、家主とハグし、奥さんとハグし、そして娘とハグしようとすると、身じろいで避けられたのだ。目の周りを真っ赤にして、うらめしそうな目で言われた一言。


「I'll go see you, so......」


 そのときホームステイをしていた家の少女が、まさか自分を追って日本にやってくるなんて思ってなかったのだ。ましてや、自分が教師として勤めている学校に留学生として編入してくるなんて、誰が想像できるだろうか。


「いったこと、おぼえてる? 『ぜったいケイゴにあいにいくから、そのときはキスしてね?』って、いったんだよ。ケイゴのこと、ダイスキだから」


 力一杯抱きしめてくる彼女は、決してあの頃の少女ではなく、かといってまだ一人の生徒として見るには時間が少なかった。

 彼女の海より深い青い瞳と目が合った瞬間、ああ、僕は彼女のゆっくりとあがる口角に引きずり込まれていってしまいそうになる。


 薄い唇は、もうすぐそこにある。



   了

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唇はもう、 高村 芳 @yo4_taka6ra

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