第32話 歯車
小熊はバイク便の仕事を本格的に始めた。
朝、少々単調になりつつあった朝食を済ませ、カブに乗って大学に行く。
相変わらずさほど知見を得られないながら、仕事と両輪の生活になってからはいいリフレッシュタイムのように感じる大学の講義を受け、最近は自分で作る弁当より頼りにしている学食に行く。
カフェテリア学食に居るまん丸体形に赤毛のウェイトレスは相変わらず愛想が悪い。小熊が何を注文しても、ちゃんとパンの種類や中に挟むフィリング、卵はサニーサイドアップかターンオーバーか、飲み物の砂糖やクリームの量、あるいは今お腹が空いてるのか、仕事ばかりでいつ暇になるのかを言わないとオーダーを通してくれない。正直なところ大学では教授からではなく彼女から知見を得ている気がする。もしかしたら自分の注文の仕方が下手なのかもしれない。例えば、昼食の注文以外の何かを、ちゃんと小熊から言ってくれるのを待っていることに気づく、など
。
昼食を済ませると大学からカブで十分少々のP.A.S.S本社に出社し、バイクは原付だがライディングウェアにはやたら詳しい軍人のような外見をした守衛と軽くお喋りをした後、社屋一階のガレージに行く。
紙ではなくスマホアプリのタイムカードに打刻した後、これは山梨でバイク便をやっていた頃と変わらないメッシュベスト一体式のパッド入りライディングジャケットを身に着け、小熊の専用車として貸与されたグリーンのCT125ハンターカブに乗って仕事に出る。
業務順調なのか仕事は絶えず入っていて、来てすぐ出るという状況なので同じライダーと顔を合わせることはあまり無く、まだ小熊たちライダーや徒歩のハンドキャリーを指揮管制するオペレーターと話す機会のほうが多いかもしれない。東京は我が体、道路と鉄道路線は我が血管、そしてあなたたちは血液と称するオペレーターは言葉通り都内のあらゆる道路の構造や道路状況に精通していて、いつも適格な指示をしてくれる。
彼女の話によるとカブに乗る女性ライダーで構成されたバイク便ライダーは、いずれも曲者揃いだという。小熊が「そりゃ困った」と言ったところ、オペレーターに「あなたもその一人だ」と言われる。
歩合の仕事が切れ目や待ち時間無く入るのはありがたいが、過重負担になることは無いのか、と聞いてみた、もしそういう状態を放置するような会社なら、また春目のような奴が犠牲になる。オペレーターの話では、あの社長がそういう仕事をする事は「絶対に」無いらしい。常に適切な仕事を割り振り、出来る範囲の労働をさせ、相応の報酬を振り込む。人の心が無いように見える社長だが、心ある人間の扱い方は誰よりも上手いらしい。
小熊は社のライダーとして日々を過ごしていた。オペレータ―の言葉通り、仕事は無理なく疲労を残さない密度で入り続け、事前に契約した勤務時間の範囲で必ず終わる。高校の時からすっとバイク便ライダーとして働いていた。ライダーが社会の歯車なら、どんな歯車にも負けない速さで回り続けていた。他のどの歯車と噛み合うこともなく。
ここに来てからは、バイクが原付二種になり、輸送も限定的な範囲を分担するだけになったことで、歯車は以前より速く回れなくなった。その件で大学の竹千代や春目に愚痴を零したこともある。
しかし、ハンドキャリーやオペレーター、あるいはバイシクルメッセンジャーと共同で仕事を行うことで、今までより大きな仕事に係われるようになった。名を言えば皆が知っているような大きな企業のトラブルフォローや、官庁街から請ける国政に係わる急送。今まで居た場所では出来なかった大規模な仕事。今まで共に働いた人間が、いずれ小熊がそうなることを望んで育ててくれた能力。
独りで回っていた歯車は、他の歯車と噛み合うことで共に力を伝達し合い、歯車の集合で作られた、社会という途方もない機械が動き出した。
小熊の世界が回り始める。小熊は、自分の周りにある物を自ら動かし始めた。
小熊の時間が、小熊自身の力で進んでいく。
国民の祝日と全く関係の無い仕事をしているうちに、ゴールデンウイークは自分の下を通り過ぎていき、五月の日々が今までとは別物の速さでやってきては去る。初めてカブに乗った時みたいだ、と思った。
思えば四月までは、歩いているかのように緩慢な時間を過ごしていた。今はカブで走り出した時のように周囲の時間が流れている。流されているんじゃなく、自らこのスピードの中に飛び込み、自分の力で世界を動かしている。
この流れの早い時間の中で、自分はどこに行くのかと小熊は考えたが、今までカブに乗っている時がそうだったように、走っていればわかるだろうと思った。走らなければ見つけられない事も。
小熊は、社会の一員として生きていた。
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