第5話 黒衣
それまで優雅な食休みを楽しんでいるように見えた竹千代は、小熊が健康茶でハンバーガーとサラダの余韻を洗い流した頃に席を立った。
小熊は竹千代が食事中の相手に自分を待たせているという不必要なプレッシャーを与えないところは大したもんだと思った。そして相手に自分の時間を無駄にさせない行動も。
すぐに店員が擦り寄ってきて、使い捨ての食器が一つも使われていないトレイを片付けた。竹千代は満面の笑みを浮かべた店員に軽く手を挙げて応える。それから当たり前のように竹千代の後ろをついていく小熊のことを上から下まで眺めまわし、軽く鼻を鳴らして歩き去った。
サンフランシスコかハンブルグあたりのホームメイド・ハンバーガーショップを模した店なら、こちらのほうがご当地流なんだろう。
小熊は余裕あるかのような微笑みを見せながら胸の前で店員に手を振ったが、彼女は一顧だにせずトレイを手に歩き去る。小熊は壁に架けられたパブミラーと呼ばれるビールや清涼飲料水の宣伝用プリント印刷が施された鏡を覗き込みたくなった。
ここのところ新生活におけるリノベーション作業とカブの整備で忙しかったせいか、器量が少し落ちているのかもしれない。
この店員が竹千代の外面を随分気に入っていて、彼女と当たり前のように行動を共にする自分のことを怪しみ、訝しんでいることはわかっていた。
それはとんだ勘違いで、小熊としては竹千代のことを出来る限り一緒に居ることを避けたい相手だと思っている。
ただ、今さら「ついてきなさい」という言葉が必要な関係ではない。
小熊は大学構内をきびきびと歩く黒いワンピースドレス姿の竹千代に従った。大学の生徒や職員の竹千代を見る目は、憧憬と警戒が入り混じっている。
後ろを歩く小熊のことは空気か何かのように誰も見ていない。人から注目されないのはありがたいが、小熊は自分が目に見えない竹千代のベールを後ろから持っているような気分になった。
食後の運動にちょうどいい十分ほどのウォーキングの後、講堂を離れ人工的な森林を抜けた先に、二階建てのプレハブ棟があった。竹千代の根城である節約研究会の部室。
学食を出てから一言も発しなかった竹千代が振り向きざまに小熊に話しかける。
「一階から取ってくるものがあるから、悪いが二階の鍵を開けてくれないか」
漆黒の髪に青磁の肌。見返り美人とかいう奴だが、鑑賞して楽しむ美人ではなく人の運命を変え、害をもたらす美人。
この顔をあまり見たくない。基本的に不快だがそれが少し変質したような、畏敬に似た感情を抱いた小熊は、言われた通り鉄製の階段を登った。
以前この部のビジネスを手伝った時に、その報酬として部の共有財産であるリサイクル素材を好きに自分の物に出来るという権利を得ると同時に、いらないというのに押し付けられた鍵を使って部室の入り口を開錠し、壁の傷に隠された秘密のスイッチを押して引き戸を開ける。
無人らしき部室の照明を点け。靴紐を解きながら和室仕立ての室内を見回していると、木箱を抱えた竹千代が階段を上がって来た。
靴を脱ぎシューズボックスの横に蹴りこんだ小熊は、後から入ってきた竹千代のために脇にどいた。竹千代が持っている箱は二つ。高校時代に同級生だった礼子なら、モーゼルを入れるのにちょうどいいと言いそうな木箱と、宝石箱ほどの小ぶりな箱。
部室に入った竹千代は彼女には珍しい微かな困惑の表情を浮かべる。
「済まないが」
小熊はひとつ溜め息をつき、小箱で手の塞がった竹千代の靴を脱がし、スリッパを用意した。
顔が映るほど磨き上げられた男物のウイングチップをシューズボックスに仕舞いながら、なんで自分はこんな不名誉で屈辱的なことをさせられているのか、今すぐ竹千代が大事に抱えている金儲けの種らしき木箱を掴んで逃げようかと思った。
二つの箱のどちらを持っていくべきか。昔話に倣うなら小さな箱。しかし竹千代は小熊の予想する範囲内の行動などしない。もしかして、中身より箱そのもののほうが高価なのかもしれない。
どちらにせよ両方頂戴すれば悩みや迷いは解決する。
あるいは、二つの箱を持っている人間ごと奪えば。
立ち上がった小熊は手を伸ばし、竹千代の背後にある引き戸を閉めた。上腕部に竹千代の髪が触れ、顔が近づく。竹千代はハンバーガーを食べた直後の口臭を恥じるように顔をそむけたが、少なくとも嗅覚がまだ都会に汚れていない小熊には、不快な臭いは感じ取れない。
戸を閉めた右腕を軽く撫でている小熊に、竹千代は軽く頭を下げて部室の隅へと歩き出した。
まずはこの女が木箱の中に隠した秘密を見てから、どうするかを決めるのはその後でも構わないと思った。
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