証明の匙
自己メンテナンスを終えてから、私はそのまま明日の作業の準備に移る。ヘリコプター内の行動と同じ、最適化されたルーチンワークだった。作業内容の確認、それに合わせたツールの整理、メンテナンス結果を反映した防護服の選定……思考方法が影響しているかは定かではないが、私は毎日同じ順番で確認することを良しとしていた。
準備が終われば、作業まで再び
私はこの体でも座れる椅子に腰を落ちつけ、机に1本のスプーンを置く。今となっては経緯に全く共感できないが、食堂から昔私が盗んだものだ。
直径3 cm、高さ5 cmほどの小型缶をつまみ、スプーンの後ろに置く。スプーンの杯数にして5,6杯程度だろうか。指先で缶の上面をひっかき、丁寧に蓋を外す。缶の中身の質を判断した後、30分の時間制限をつけて嗅覚センサーを落とした。
暗視機能で視認ができることをいいことに、金銭的な理由で私の部屋には電灯がない。光源のない無音の部屋で待つこと数分、750 m先の食堂から喧騒が聞こえ始める。時刻は、ちょうど他の作業者たちが食堂に集まり始める頃だ。亡くなった同僚から数十年前に教わった、手を合わせるという行為を今日も試みる。あいさつの一種とのことなのだが、言葉だけではなく、この手にも意味があるらしい。当時の私が攻撃的な言葉を用いて邪険に扱ったことが災いして、情報量がこの程度しかない。改めて聞く機会が巡ってくればよかったが、私が現在のような思考を行う頃、彼は既に会話が不可能になっていた。
指が触れ、18本分音を立てる。顔の前か胸の前か、どちらが正解か判断ができないため、その中間に手を上げる。手首はどちらに向けるのかも同様に正解を知らないため、関連する物……目の前の缶とスプーンに合わせた指を向けるようにしている。私の行為に関して指摘をする者がいないため、正誤を判断する手段がない。
聞かせる相手がいるわけではないが、声帯ユニットを有効にする。
「……いただきます」
耳として用いている集音マイクに、自分の声を拾わせる。言葉の意味を時間差で理解し、
内臓部品用の潤滑油を缶からスプーンで掬い、そのまま上を向いて口に該当する部分へゆっくり垂らしていく。
ただ、この行動を伴うことでしか、体の不調とは別に襲い来る空腹を抑える術がない。食堂で食事が開始される時間以降にこの行動を行うことが、頭に巣食う空腹から解放される条件になっていた。
(私は食事をしている。昔と比較をすると量は少なくなったが、これは食事に該当する。食事をしているのだから私は生物であり、さらに人間の範疇で理解ができる文明が乗っているのだから……私は人間だ)
この言葉を脳裏に響かせる事も、一連の奇妙な行動の一つだ。思考方法が変わる前からそうであったため、この思考に至る理由を、私は正しく把握をしていない。
……していないが、不快ではない。理由もわからず、この言葉に私は確かに納得している。同時に、この言葉を必ず思い出さなければならないと、謎の焦燥感も湧き上がる。そう感じる経緯には、体への影響と効率を紐解けば、必ずどこかに不確定性と矛盾が見られるはずである。だが、そこだけは思考を研ぎ澄ますことがどうしてもできなかった。
思考が変化する前……粗暴な獣であった頃の私の方が、この言葉の意味を正しく理解していたかもしれない。あるいは、かつての私が空腹という形で、この矛盾をそのままにするために足掻いている……そんな仮説を捨てきれない。
(空腹がある限りは……そしてそれを落ち着ける術がある限りは、通常の人間であった頃の思考が残っている)
……そうでないのならば。
その先は、心臓と脳由来の警告音でかき消された。
潤滑油を入れていた小型缶が空になり、ようやく頭の片隅から空腹が姿を消す。空腹時は思考リソースを常に奪われるため、正常に行動できる状態とは言えない。これでようやく、明日の仕事に支障がなくなる。
スプーンを所定の位置に戻し、小型缶は廃棄物として処理をする。最後のルーチンワークを終えた後、待機用ポッドに燃料と電力の充填を設定し、手足を折りたたみ中に納まった。
空腹が必ず作業終了時に来るのは、単純な燃料切れと連動している事は把握している。食事と言いながら、実際に体を稼働させるためのエネルギーを補給するわけではない。私はそんな矛盾をそのままにしている。あくまで「空腹を収めるための行動が私にとっての食事である」と定義しやすいことも理由の一つである。
空腹がなくなっている分、ヘリコプターでの仮眠状態と比べるとずっと精神的に安定している。稼働時間を重ねるメリットはないため、充填開始を確認して
意識が、静かに沈んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます