第98話 絶対的強者
限界まで投げても、まだすがり付いてくる。
限界の限界まで投げても、まだ食らいついてくる。
こんなバッターは、他にはいない。
上杉勝也は、絶対的な強者であった。
試合には負けることがある。全員を三振に取ることなど、出来ないからだ。
だが上杉勝也自身が負けたことなど、高校時代にはなかった。少なくとも己の認識としては。
上杉は泣かなかったなどと言われたあの最後の夏、負けていないのだから泣かなかったのだ。
プロ入りしてからも、負けというものは実感しなかった。
試合に負けても、点を取られても、ごく稀にホームランを打たれても、敗北感は感じなかった。
なぜなら全てが、自分の想定以下のバッティングであったから。
ペース配分を考えて抜いて投げれば、それは狙い球を絞ったバッターに打たれることはある。
そんな抜けた球を打たれても、総合的に勝てばいい。一戦終われば負けのトーナメントと違って、プロのなんと甘いことか。
プロはその結果がダイレクトに自分の生活に関わり、未来を決めるから厳しいという。
だが上杉にとってはプロで結果を残すことは難しくなく、事実成功してきていた。
生活がかかっているから難しい?
違うだろう。高校三年間という、あのわずかな時間に全力を尽くして、それでも最後まで勝てるのはわずか一チーム。
そんな競争を、ただ名誉だとか栄光だとかいったものだけを報酬に、ひたすら練習を続けてきた者の方が、はるかに厳しかったはずだ。
少なくとも上杉の認識ではそうなっている。
プロのバッターは甘い。
自分の球を三球三振しても、他のピッチャーから打てばいい。
そんな選択肢があるから、いつまで経っても打てないのだ。
そう思っていた。
挑戦者は常に下からやってくる。
プロ最速を出して、それをホームランにされたあの日。
間違いなく上杉のレベルは、一つ上がり、さらに上を目指すようになった。
上に行くためには、競い合う者がいた方がいい。
それは対決するものであったり、競争するものであったりと、いくつかの形があるだろう。
江川と西本、マグワイアとソーサ、テイエムオペラオーとメイショウドトウ。
何か変なものも混じっていた気がするが、とにかく切迫したものが、上杉を強くした。
本気で投げたボールをホームランにされたのは、あれが初めてだった。
170kmなどというスピードは出したことがなく、そのためしばらくの休養を必要とした。
それは対戦相手の大介にも影響があり、しばらくは打撃成績が落ちた。
お互いに高めあうが、同時に削りあう。
恐ろしいライバル関係が、二人の間には存在している。
上杉は、雪の寒さを感じる。
子供の頃、冬の日本海に向けて、石を投げていた。
風を突っ切るように、雪の中に溶けるように。
見えなくなるほど遠くに、子供の頃から石を投げていた。
日本海の荒波を貫くように、低く投げることもあった。
そんな石投げが、ボールを握らせて投げた時に、凄まじいスピードボールへと変わった。
小学生の頃から、誰も打てない球であった。
近所の高校生が、上杉の軟球を打とうとして、一発もかすりもしないということがあった。
小学校も高学年になると、上杉の身長は大人並になっていた。
体の上への成長と、厚みの成長は、バランスよく育っていった。
中学校に入ると、レベルの違いから学校の野球部ではなく、シニアのチームに入ることになった。
それでも上杉のレベルは高すぎて、キャッチャーの後逸などが多かった。
構えたところへ投げることで、コントロールがついた。
しかしこの頃、変化球をおぼえようとして失敗している。
究極のストレートを投げるために特化した腕は、指先まで満足な変化球を投げることが出来なくなっていた。
どうにか投げられるようになったのは、指先の微妙な握りで、小さく動くムービング系のボールだ。
そしてそのボールさえキャッチャーが捕球出来ずに、負けることがあった。
野球でプロになろうとは、この時点でも思っていなかった。
だから日本中から勧誘があっても、父の知り合いが校長をしている春日山に進学した。
だがそこで上杉は、よりキャッチャーの不足という問題に悩まされることになる。
直史とは全く段階が違うが、キャッチャーの力不足である。
しかし上杉は、そこでキャッチャーを責めようとはしなかった。
ただ、自分でキャッチャーを見つけてくることはした。
不思議なものだ。
自分があれほど期待されていた甲子園の優勝旗を、そうやって自らスカウトに行ったキャッチャーが、弟とバッテリーを組んで新潟に持ち帰った。
自分を慕って入部した一学年下の選手たちと共に。
上杉の伝説は、彼が引退し、プロの世界に入ってから完成したのだ。
弟たちの全国制覇と、自身のNPB日本一。
高校時代はあれほど渇望しても届かなかったものが、周囲にレベルの近いチームメイトがいるだけで、あっさりと取れてしまったのだから。
連覇を果たし、チームはより強くなっていく。
神奈川はそれまでBクラス常連だったのが、上杉と共に強くなっていく。
自分だけではなく、周囲にも影響を与える。
そういったカリスマが、上杉にはある。
そんな自分に比べると、こいつはどうなのか。
小さな体だ。
初めて会った時もそう思ったし、今でもそう思っている。
だが、上杉の知る限りでは、最強で最高のバッターだ。
そして自分を恐怖させる、唯一のバッターでもある。
単純に技術が優れているとか、フィジカルが優れているとか、そういうレベルではない。
おそらく遺伝子のどこかにバグがあるのではないか。そう思わせる。
体格に比べてパワーとスピードがありすぎるし、それ以上に恐ろしいのは当て勘だ。
おそらくはリリースした瞬間に、そのボールの軌道を追っている。
そしてインパクトの瞬間には、バットでボールを切るように振っていると言う。
上杉には理解出来ない世界だ。
ひょっとしたら世界でも、大介だけしか出来ていないことなのかもしれない。
もっとも上杉もピッチングにおいては、同じことを言われるが。
空気の壁に、ボールをぶつけるのだ。
すると空気は上には逃げられるが、下には地面があるから逃げられない。
そのほんのわずかな空気の密度の差に、ボールを乗せるように投げる。
するとボールは、思った以上にホップする。
意味が分からないと言われるが、上杉にとっても感覚的なものなのだ。
空気の壁にボールをぶつけて、そしてその壁をボールが突破する。
空間をえぐるように、上杉は投げている。
ファール一つを挟んだ四球目。
上杉のボールを必死で打った打球は、セカンドの頭を越えたポテンヒットになった。
神奈川としては判断を決めさせる勝負であった。
大介が塁に出てしまったため、最後の最後で五打席目が回ってくる。
数字だけを見れば、今日は四打数の二安打。
シーズン中では勝っていたと言えるのだろうが、今日は形勢が不利だ。
そもそも延長に入ってしまった時点で、スターズは不利なのである。
上杉の体力を考えて、確実に点を取り、リリーフも使って上杉を休ませるつもりであった。
それがライガースは山田と、その後のリリーフのピッチングで、スターズ打線を抑えてしまっている。
得点力がほしい。
切実な願いだ。だから去年は大介の後輩である、アレクを獲りに行ったのだ。
しかしこれまで三期、一位指名を見事に取っていたGMが、さすがに外してしまった。
フロントもフロントで、塁に出て足でかき回せる、西片をもっと積極的に獲得にいってほしかった。
在京球団という条件はあったが、神奈川なら充分に通える距離だ。
何かもっと、条件は提示できなかったのか。
神奈川はフロントも色々と、考えてはくれている。
だが育成の失敗と、外国人選手の失敗が痛い。
せっかくここまでピッチャーを日本人で取れているのだから、もっと打線に打てるバッターがほしいのだ。
芥に堀越と、それなりに打てるバッターはいる。
だが二人とも巧打者ではあるが、強打者ではない。
打線の中に一本、強烈な打球を打つ柱がほしい。
フロントも考えてはいる。
今年のドラフトも、ピッチャーはもちろん獲得するが、まずは即戦力級のバッターがほしい。
だが社会人も大学も、目立ったバッターはいない。
正確に言えば大学では、直史に封じられまくっているバッターが多いのだ。
下位で指名して、化けそうな者はいる。
だがあと二年はほしい。
12回までを上杉は投げ続けた。
そして12回の表に、ライガースのクローザー、オークレイから一点を奪うのに成功する。
オークレイはそれなりのセーブを重ねた。数だけなら立派だ。
しかし防御率として見れば、意外と点を取られている。
一点差で勝っている時は、しっかりと仕事をしてくれる。
だが二点以上勝っている試合では、失点が多い。
同点の時の緊張感と、一点差の時の緊張感、そしてそれ以上の点差がある時の緊張感が、全て違うのだろうか。
ともかくこれで、一点を取れた。
裏のライガースの攻撃を封じれば、日本シリーズへ進むための条件、上杉でまず一勝という段階を越えられる。
しかしよりにもよって、最後のバッターが大介になっている。
本当に最悪なのは、ランナーを出して大介を迎えること。
引き分けでも痛いのだが、逆転ホームランなど打たれたら、クライマックスシリーズを突破するのはほぼ不可能になる。
しかしここはしっかりと、ツーアウトを取る上杉である。
五打席目、最後の対決がやってきた。
現実的に考えて、大介がホームランを打てなくては、ヒットでは点は入らない。
今年のシーズン中はまさに神が降臨していた上杉であったが、このクライマックスシリーズは、さらに仕上げてきている。
ライガース相手にシーズン負けなしの男は、12回でも160km台後半を投げて、その球威に全く衰えはない。
三振を奪うピッチャーではあるのだが、遊び球が少ないため、やはり球数は少なくなるのだ。
最後の対決。
下手をすれば、今年最後の対決になるかもしれない。
いや上杉のことだから、中一日で投げてきてもおかしくはないが。
バッターボックスに入った大介と上杉の間で、何かチカチカと煌くものがある。
それは二人だけに見える、お互いの力の拮抗する形。
力の象徴。
踏みしめる足元から、グラウンドを覆うかのような感覚。
いつもは、ボールだけに集中が出来る。
しかし上杉との対決は、そういうわけにはいかない。
ピッチャーの支配する、18.44mの空間。
その終端地が、バッティングのミートポイントだ。
大介はスイングし、ボールをバットで打つことだけを考えるのだ。
ホームランを打てと、意識をそれだけに集中する。
狙うはバックスクリーン。
バッティングの基礎といえる、センター返しだ。
確実に、当てて、届かせる。
さあ、来い。
これは、決まるな、と上杉は思った。いや、感じた。
初球で決める。
おそらく大介も、全力のスイングをしてくるのは一度のみ。
ならばこちらも、全力を尽くす。
この一球で、今日の試合は終わらせる。
大きく振りかぶった上杉が、MAX171kmのストレートを、延長試合の最後の最後で投げる。
ぐわりと引き上げられた足に、そこから大きく上に上げられた右腕。
最高のストレートを、打てるものなら打ってみろ。
大介のスイングに、ボールは当たった。
それは、高く、そして遠くへと飛んだが、充分な距離ではない。
限界まで下がったレフトが、フェンスに背中をつけてジャンプする。
そのグラブの中に、ボールはあった。
スリーアウト。ゲームセット。
12回を投げた上杉は、148球で完封。
打たれたヒットはわずかに三本で、奪った三振は26個。
どれだけ三振を奪えば気が済むのか。
しかもこれはある程度、力を抜いて投げたものだ。
大介は二本のヒットを打った。
偶然にも、打率は四割である。
だが問題は、一点も入らなかったことである。
チャンスの時に回ってこなかった。
だから自分で決めようと思ったし、それは間違っていなかったはずだ。
最後のボールは、さらに球威が上がっていたのか?
それは考えられる。バットがボールの、想定していたわずかに下を叩いた。
切ることが出来なかった。
1-0だが完敗だ。
一点も取れなかったのだ。
これが2-1とかならまだ、希望はあったのだろうが。
明日の先発は柳本。
今年は故障の多かったエースが、勢いを変えてくれるのか。
神奈川は明日は、大滝が投げてくる。
160kmを投げるというピッチャーであるが、大介にとってはただのカモである。
明日までに、立ち直ることが出来たら。
大介は考える。
このまま勝っていけば、必ず上杉はもう一度投げてくる。
そこで打って、今度は勝つ。
三振が取れなかった。
今日のヒーローではあるが、上杉の表情は硬い。
インタビューにも短めに答えて、どっかとバスの座席に座る。
疲れた。
今日は本当に、限界まで疲れた。
あの最後のボールを、大介が見逃していたら、二球目には打たれていたかもしれない。
だがこの疲れは心地いいものだ。
ホテルに戻れば、しっかりとマッサージをしてもらおう。
そう思いながら、上杉は眠りの世界に旅立っていった。
×××
明日はお休みか短めになります。
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