——赤いこども


「そこにいる全ての人が幸せにならないと、社会の幸せなんて、ありえないの」

 途切れ途切れの、かすれた声で、おばあちゃんは毛糸のセーターを編みながら言った。

「日本もね、変わらないと……。いつまでも競ってちゃあ、だめ」

「そうですね」

「そう。貧乏な人がいちゃあ、国としておかしいのさ……みんなが上も下もなく、平等に働いて、同じようにおいしいものが食べられたら、争いなんて起こらないし、人々の顔も、穏やかになるでしょう」

「オリガさん、お茶、注ぎますね」

 おばあちゃんのお茶がなくなったので、わたしは急須を傾けてそそぎ足した。

 彼女は、オリガさんと言って、ロシア人の老婦である。

 戦時中、彼女は捕虜となったある日本人と知り合って、恋に落ちた。荒井火鳥という、若い男の人で、彼女曰く、賢く体も健康で、思想も善良であったらしい。彼女は、とにかく、彼のことだけは褒めたのである。


 急須にお茶がなくなって、台所へ片付けに立ったと同時に、玄関でドアが開く音がした。火星くんが帰ってきたのだ。

 火星くんと出会ったのは、一週間ほど前。彼が道端で同級生にいじめられてるところだった。わたしは、いじめは良くないと、その子達にいい、彼らが去った後、火星くんはわたしに、「ありがとう」と言った。


 わたしの出過ぎた真似は、わたしの義侠心を満足させこそすれ、彼にいいことはない(また学校でいじめられるに決まってる)から、てっきりわたしは、

「誰だよ、テメェ。いらねえことすんじゃねえ」

 なんて言われると思っていたので、驚いた。

「なんていい子だ」

 とわたしは思わず声を漏らした。それに対しても彼は「どうも」と頭を下げたのだ。


 火星くんと、オリガさんは二人暮らしだ。火星くんの物心ついた時からそうらしい。そのせいもあってか、彼は十三歳にしては、とてもしっかりしている。少し話しただけで、わたしはそのことに深く沁み入ったのだった。


 火星くんはオリガさんの孫である。

 二人がどのようにして二人暮らしとなったか。

 それについて、火星くんはオリガおばあさんに聞かされたことがあったらしく、それをわたしに教えてくれた。

 彼は、オリガさんの生い立ちから、教えてくれた。



 オリガ・ナロリナは一九三〇年、当時はソ連の、クラスノヤルスクに生まれた。

 荒井火鳥とは、一九四五年、エニセイ川のほとりで二人は恋に落ちる。彼女は散歩をしていて、火鳥は脱走していた。彼女は火鳥をを家へ連れて帰り、そこで火鳥は一年近く、隠れながら過ごした。

 一九四六年、火鳥はオリガとの結婚を誓い、日本へ帰国。それ以来オリガは、いつか日本へ行き、彼との約束を果たすため、十八歳になったある冬、病気で目と耳がずいぶん弱まったが、それでもまだ諦めず勉学に励み、それから十五年後して、一九六三年、ようやくのこと日本へやって来た。そして、大阪に荒井火鳥を見つけ、結婚したのであった。当時三十三歳であった。

 それから七年して娘が生まれた。

「それが僕のお母さんなんだけど、名前を教えてくれないんだ」

 と火星くんは言った。オリガさんはその娘さんを、よく思ってないらしい。

 ともかく、女の子はすくすく育ったが、二年後の一九七二年、荒井火鳥さんが突然亡くなった。四十六歳であった。死因は肺結核で、旺盛だった彼は気丈に振る舞ったのか、死ぬ直前まで、まったく弱気を見せなかったらしい。

 その日以来オリガさんは娘を女で一人で育てたのであるが、その娘が二十二歳になったある日、当時一人暮らしをしながら大学に通っていた彼女は、突然帰ってきた。というのも、子どもができたというのであった。彼女のお腹はずいぶん膨れていた。

「父親は誰なの」

 オリガさんが聞いても、彼女は答えなかった。何度か訊ねて、ようやく出て来た答えが「逃げた」というのであった。

 その心的ストレスからか、オリガさんの協力も虚しく、お腹の中の子は消えてしまった。二人はその日から数週間、静かになって暮らしたそうである。娘さんはそれから、地元のスーパーに就職して、オリガさんと一緒に暮らすようになった。そして、綺麗さっぱり仲直り、とはいかないものの安定した日々を過ごしていたのだ。

 ところが。

 十五年経った二〇〇七年の春、突然娘さんのお腹が、再び膨らんできた。

 彼女には何の思いたる節もなく、本当の突然であるらしかった。あの時いなくなった子が、もう一度降りて来てくれたと彼女は言った。

 その確信そのままに、その胎児は、お腹の中でみるみる育ち本当に産まれた。

 その子が火星くんである。

 火星くんの母親である彼女は、火星くんを産むと同時に、眠るようにして亡くなったのだそうだ。調べても原因はなく、老衰ということになった。

「不思議な話ね」

「でも、そんなことが本当にあるのかな」

 と、火星くん自身信じていない風だった。

「わたしは信じたいな。そういう話」

 わたしは火星くんに持って来た本を紹介した。

 実は、今日は、そのために来たのである。



 火星くんは本を数ページ読んだばかりで、今度はお風呂の用意をして、お湯を待った。

「わたしは今日、延々と聞かされたんだけど、火星くんも、社会主義の話は、オリガさんからよく聞く?」

「聞きます。それと神様の話です。ロシア正教という、キリスト教?らしいです」

 ちなみにオリガさんは、いまだにソ連が続いていると思っている。

 十八で弱まった目と耳は、日本に来て火星くんを育てることにはとうとう完全に塞がれてしまった。それだからソ連の崩壊を、知らないままでいるのだ。そんな彼女はいまだにソ連に希望を持ち、そのことをよく語る彼女に、それを教えるものはいなかった。自分では、新聞やテレビなどからをそれを知れないので、いまだに彼女の中では理想の国家ソ連が、アメリカと競い合っているのだ。

「なるほど……こういう質問してもいいかな? 単なる興味というか、わたしも、昔から気になってることだけどね……その」

「神を信じてるか、ですか?」

「ええ、そう」

 わたしは首を大きく降ろしてうなずいた。

 火星くんは、一瞬にして、とても思慮深い顔になった。壁に背中をもたれて、顎を胸に埋めるようにして座っている。


「……わからないんです。信じてるんでしょうけど、疑ってる。でも、疑ってるってことは、つまり、多分信じてるんです。でも、信じられない。本当にいるのかどうか。いるのかどうかを、考えるべきかどうかも、わからないです」

「なるほどね。よく考えるのね」

「文子さんは、信じてるんですか」

「知り合いに、聞いたことあるんだけど……まあ、それはまたいつか、話してあげるね。けれど、わたしは、信じてるな。なんとなく。見たことあるような気もするし」

 彼はパッと花ひらいたように、わたしの顔を見たのだった。

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