——日記
夫が隠れて日記をつけている。
それは私のことも大いに書いてあるのだろうが、鍵のついた引き出しの中にそれを隠してあるのだ。そのことを私は知っている。
ある日、夫が出た後、掃除をしに部屋に入ると床に鍵が落ちていた。もう五十を越える年齢である夫であるが、いまだに用心深くて、抜けたところのない彼である、まさかうっかり落としたのではなかろう。だとすると、わざと落としたのだ。
「なぜわざと落とすことがあるの?」とわたしは聞いた。
彼は、私が他人の内緒にわざわざ踏み入るような女でないことを知っている。それだからもし私に読ませたい秘密があって、それを読むように言っても、私が読まないで済ませてしまうことも予想できたのでしょう。
「だからと言って、鍵が落ちていて、それで奥さんは読むの?」
読まないです。けれどしっかり者の彼が鍵を落としたということのメッセージは「読め」ではなく「おれに内緒で読め」ということでしょ。彼は、秘密に日記を書いてたし、それを鍵付きの引き出しにしまっているという事実さえ私に悟られないように振る舞っていたけれど、同じ家に住んでるんですもの、それくらいのことは私も知っていて、暗に私が知っているということにも、彼は気づいたのでしょうから、そういう回りくどいやり方になってしまう。気づいてから、気づく前からかはわからないけれど、何か私に対する、読んで欲しいものを書いたのでしょうね。直接何か私に言うような性格じゃないから。
「それで、奥さんは、その日記を読んだの」声をひそめて言った。
読まないわ。読まないままでも、気づかないふりをして過ごしてゆけばいいのかなと思って。
「それはいいですけれど、難しくないですか? きっと、そのままではダメですよ。たとえば、自分が他人に嘘をつく状況を考えてください。自分のことを知っている相手に嘘をつくのと、自分のことを全く知らない相手に嘘をつくのと、この二つは違いますよね。同じ情報を伝えても、伝わり方は全く変わってしまいます。つまり相手がわたしのことを知っていたら、それが嘘かどうか簡単にわかったり、あるいはそれを知っていると知っている上での嘘を作れたり、相手がわたしのことを知らない場合、わたしはわたしでなくて、相手にとって知らないただの一人間としての嘘のつき方になります。話はここからです、しかしわたしのことを知らないとわたしは思っているけど、実はわたしのことを知っている相手と、わたしのことを知っていると思ってるけど、実はわたしのことを全く知らない相手。こうなると話はもつれてきます。ですから、この場合、奥さんが日記を読まないというのなら、日記を読んでないということをご主人に知らせる何かをしたほうがいいと思います。でないと、対処できないモーションが相手から飛んでくるかもしれません」
なるほど。読まないことに問題も出てくるのね。つまり、彼はそういうメッセージで鍵を置いて、とすると私に、私がそれを読んだものとして接してくる可能性がある。私はじゃあ、読んでないけれど読んだものとして、読んだと思っている彼と接するべきなのかしら。
でも、その場合はあれですか、夫が鍵を落としていることにも気づいていなくて、だから本も読んでないふうにすればいいのですか。それとも鍵は落ちてるのに気づいて、その上で読んでないことにすればいいのですか。
「奥さんは日記の存在を知らないという体で、知っている、ことを相手は知っているのですよね。ですから、ご主人は、鍵を落とした。もしご主人が、奥さんが日記に気づいていないと思ってたら、日記を落としますからね。なので、鍵が落ちていたことに気づいていたし、それが日記の鍵だということにも気づいているという体でいいと思います」
ありがとうございます。本当にありがとうね。
とわたしは、そういったややっこい話が好きなので楽しく聞いていたけれど、
「……読めばいいじゃん」
とハダカちゃんは言った。「てか、持ってきてよ。あたしも読みたい」
ねえ、ねえ。とハダカちゃんは詰め寄った。
「あたしだけでも読ませて。いいでしょ。その意味のわからない話に、関係ない他人は、含まれないから。全く関係のない他人が、全く関係のない他人の日記を読んで、以後関係を持たなければ、何をや考えんや!」
「はいはい」
とわたしはハダカちゃんをおさめた。
「いいですからね、菊丸さんは、彼女のことは気にしなくて。無視していいですから」
菊丸さんというのが、彼女の名前である。が、そんな彼女は、無視するどころか、乗り気になった。
でも、私は絶対に読みません。けれど、中身はその実、気になるのです。ですから、ぜひ、ハダカさんに私の代わりに読んでもらうというのは、いいかもしれません。
そう言って、彼女は部屋へ日記をとりに行った。
ハダカちゃんは、ワクワクしている。人の日記を読むのが好きな人種がいるとしたら、彼女はちょうどそれである。もちろん、わたしもそれである。
「確かに、この場合、さっきまで考えてたより、余程計算が楽ね」
「何が計算だ。意味のわからん理屈をごねごね言いやがって」
「けれど、この場合も実は、さっきハダカちゃんが言った、全く計算に入れなくていいってわけじゃないのよ。誰一人日記を覗いていないのと、関係のない人であっても、誰か一人がその日記を覗いたのでは、大きな隔たりがある。認識するって、恐ろしいことだから。でも、意味的には大きな隔たりではあるけれど、わたしたちが生活していく上では、小さな影響しかないわ。たぶん。気にしなくていいくらいの」
「うっせえ」
と彼女も、わたしも、笑った。
ちょうどそのとき、扉が開いて、菊丸さんが帰ってきた。
わたしとハダカちゃんは、菊丸さんの目に入らないように用心して、その日記を読んだ。
その内容は書かない。もちろんである。
それと、不思議なことに、わたしとハダカちゃんが読んだという所為であろうか。ハダカちゃんが、
「奥さんも読む?」
とその日記を進めたら、案外簡単に、菊丸さんは日記を読んでしまった。
やっぱり、関係ない人でも、それを読んでしまうことには、意味が出てくるのだ。
けれどまあ、結果的に、それからの彼女とそのご主人との関係は、見る限りあまり変わらなかった。
奥さんは、日記を読んだが、読んでない風に振る舞ったし、夫は彼女が日記を読んだだろうと予測をたて、その上で読まれてなかった今までと同じように振る舞った。
たまに彼女はわたしの部屋に来た。それも、こっそり日記を持ち出して。
まだ一人でその日記をひらく勇気はないのだ。
でも、わたしは最近、ふと考えることがある。
それは、今まで計算に入れてなかったことだ。
それは「もしほんとうにたまたま彼が落としていたら?」ということである。
それを勝手に読むのが良くないことは、説明しておかなくてはならない。
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