——天才ブーム


 雨の中、走って帰った。

 アパートの階段を二階まで登ったとき、鍵を持ってなくて、ドアの前で座ってる京太郎くんを見つけた。鍵を忘れてしまって、母が帰ってくるまで入れないらしい。彼を部屋に入れてあげた。


「ねえ」と荷物を京太郎に持たせ、鍵を取りだすとき、わたしは彼に聞いてみた。「原初キリスト教って、仏教と似てるの。どう思う?」


「は? 今は違うの?」


 この質問はとても嬉しい。「いい質問するね」と言いたかったけれど先を進めた。


「違ってるね。じゃあ、なぜ最初は似てたのに、今は違うと思う?」

 彼は数秒考えたけど、諦めたらしい。

「どうやったらわかるの?」と聞いた。この質問も気に入った。


「いろんな本を読むしかないね」

 とだけ答えた。



 京太郎は、いかにもな現代風の男の子。小学生なのに髪も染めているし、目つきは悪いが、輪郭は鮮麗で鼻も唇も小さくて明るい。ランドセルと肩が濡れている。わたしは今年初めての部屋暖房をつけ、京太郎にドライヤーを貸した。


「京太郎ー」とわたしは髪を乾かしてる彼を呼んだ。「マリンちゃん、何時ごろに帰ってくるの?」


 すると彼は洗面所のドアから顔だけ出して、


「七時か、八時」


 と。わたしはマリンちゃんにラインを送り、小林家の分の夕食も作ることにした。久しぶりに、袖をまくる気分である。




 わたしがまだ岡山の実家に暮らしていたある時期、わたしに天才ブームが訪れた。というのも、その当時、好きだった男の子が天才だったのだ。


 少なくともわたしはそう思っていた。


 なので伝記や小説など、天才の出てくるものを読んで、生態を調べ、彼がそれであるという確認をしていた。


 相手は友達の部活の先輩であった。写楽さんと言った。


 友達、懐かしい響き。ルキちゃんと呼んでた。友達の「極端に」少ないわたしであるが、高校生のころ実はそうやって友達がいたのだ。そういう存在はたぶん幼稚園の頃よく一緒にいた男の子以来であったから、おおよそ人生で初めてと言ってよかった。

 その友達と先輩が所属しているのがフネス部であった。


 フネス部? と思ったことだろう。別な言い方をすれば「記憶部」である。記憶力の大会に出たり、クイズ大会に出たりしていた。


 写楽さんはそれが殊更に得意であった。部長でも副部長でもなかった上に、髪が長くて寡黙で二重人格でもありそうなくらい白く弱っちょろい見た目だけれど、記憶は一番強くて、しかもそれを楽しくなさそうにやっていた。


 彼のことを聞くと、ルキちゃんは「え?」とか「彼?」とか言った。たぶん、魅力的に見えてなかったのだろう。恋なんて興味ないわたしだから、それほど思い詰めたり、追いかけたりはしなかったけれど(ルキちゃんの追いかけはすごかった。わたしは二つも隣の学校へ行くルキちゃんにわざわざついて行ったことさえある)彼のことはふとしたときに考えた。


 だって、トイレへの道さへ教えてもらわなければ一人で行けない時さえあったのだ。


 けれど、ニュートンだとか、アインシュタインにもそういうところがあったらしく、彼はもしかしたら、世界をひっくり返すのかもしれないと予想した。


 それで、砂糖みたいな味のするどんより天気だったその日、放課後になって堰を切ったように大雨が降り出した。わたしは図書館にいた。その日はキリスト教についての本を見ていた。四つくらい本を重ねて居座ってたと思う。


「光あるうちに光の中を歩め」

 彼が言った。


 わたしは突然に現れた彼にびっくりした。あまりに静かな図書館時間だったので、てっきり一人きりだと思っていて、大きく息をついていたりしていた。急に緊張したけれど、彼の言った言葉が頭に残って、なんのことかと気になった。


「原初キリスト教のことが書いてあるよ」

 わたしはそれから二時間くらいかけて、大まかにその本を読んでみたけれど、

「原初キリスト教って、仏教ととても似ているんですね」

 と言ったとき、彼がなんとも言えない顔をして、わたしは少し落胆したような、けれどその落胆に自身で気づかないふりをしてそのまま帰ったのだった。



 傘がなかったので、駅まで走ってずぶ濡れになった。

 そして電車に乗り、家まで帰って、わたしは鍵を持っていないことに気づいたのだった。


 大雨の玄関で、雷の鳴り出した空を眺めていた。細切れにされた短い風が吹く。わたしはいい加減寒くなってくる。途方に暮れていると空からくぐもった轟音が鳴り、座り込んでたわたしがびっくりして見上げると、黒雲の中にうねる白い腹が見えた。


 じっとみていると、最後に尾が雲の中へ入っていき、龍だとわかった。龍の周りには雷がはじけ、雲もより一層のこと黒味を増していた。わたしはもう呆気にとられて、母親の車が入ってきているのにも気づかないくらいだった。




「絶対嘘だ」

 京太郎はスープの飲みながら、わたしを睨んだ。

「ほんと。でね、龍っていっぱいいるらしいの」

「どれくらい?」

「東西南北にそれぞれ、青白赤黒。それと緑色の龍は湖とか川とか、それも山奥のね、そういうところに日本全国、ひっそりと生きているらしいよ」

「ふーん」


 京太郎はわたしが調べるまでもなく、天才であろう。わたしの本棚をちらちら見て、龍の出所を探していた。

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