第四話 疑心暗鬼

「とりあえず逃走には成功したが、ねね? 狸みそを浴びないようにマスクとゴーグルと手袋を着用。乳母車から身を乗り出すなよ? 合図したら乳母車の中に潜り込んで身の安全を確保だ」

「了解ですぞ兄さま! なんだかいつもより凜々しいですな! 妹を守るために戦う兄の勇姿――まるでアニメの主人公。ねねは感激ですぞ! ……むー、むー」

「しっ。ねねは声が大きい。きびだんごを咥えておくように」

「むーむー」

 良晴が場慣れしているのは、戦国世界で武将として働いてきたのだから当然のこと。ねねを乗せた乳母車を押しながら、森林内を探索開始。例の信楽焼が落ちたという河を真っ先に探した。義元の述懐によれば、河はこの森の中を流れているはずなのだ。

「……信奈と梵天丸は無事だろうか……まずいな、ケータイの電波が繋がらない。狸の霊力が電波を不安定にしているらしい」

「むーむー」

「それに、みそに感染した義元ちゃんの記憶をあの狸が読み取れるとすれば、まずい気がする。元康と違って、今川邸の完全なMAPを記憶しているからな。対する俺たちは地図も持たずに行き当たりばったりでこの非常識なまでに広大な敷地を探索するしかない」

 狸妖怪・奪吻公は神出鬼没、河のどこかで俺たちを待ち受けているかもしれない。良晴は肌を塞ぐ完全防備を自らに施してますます慎重に探索を続けた――かつて五右衛門のもとで忍者修行にいそしんだ経験が生きている。

 行軍十五分。良晴は森林に隠れつつ河沿いに音もなく移動を続け、水面をぷかぷかと流れている信楽焼を発見した。

(しめた! あれを回収して即、信奈たちを探し合流する!)

(むーむー! 兄さまはまるでランボーですぞ! かっこいいですぞ! いつもの信奈姫のパワハラ会議でお慈悲を乞うている昼行灯とはまるで別人ですぞ!)

 乳母車を背後に回して良晴自身が先頭に立ち、ゆっくり信楽焼に接近してみると――。

「よ、良晴? 心配して来てみたのだが、無事でよかった。姉者が毛利一家を動員してすぐに駆けつける、もう安心だ」

「こ、小早川さん!? どうしてここに? 俺が今川邸にいると誰から聞いたんだ?」

「お、織田信奈から狸滅隊員募集の告知がクラスメイトに回ってきて……私が相良幼稚園に到着した時にはすでに誰もいなかったので、追いかけてきた。すまない」

 良晴や信奈と同じ一般クラスに通うクラスメイトで幼なじみの小早川隆景が、厳島神社でお馴染みの巫女さん姿で河の畔に立っていた。森、河、巫女さん。不意打ちにも程がある。なんて清浄な光景なんだ……だが小早川さんを一人で森に立たせていたら危ない。良晴は一瞬小早川に目を奪われてふらりと近づいていた。

「小早川さん、信じられないだろうが今川邸にはほんものの狸の妖怪が。すでに義元ちゃんや元康たちが術に落ちて操られている。危ないから俺の背後に――信楽焼を回収する」

「わ、私はいざとなれば祝詞を用いて妖怪を調伏できる。だいじょうぶだ、学生だけれども本業は巫女だから」

「そうか。わかった、ありがとう! でも小早川さん、あんまり無茶しないでくれよ? 俺の心臓がもたないから」

「……良晴……素顔を見せてほしい。マスクを外していいだろうか? よ、良晴の無事な姿を見た途端、私は……私は幼い頃から、実は、ずっと良晴のことを」

 ええっ? 小早川さんが俺にキスしようと腕を首に絡めてきたっ? そんな馬鹿な? 超超超奥手の小早川さんが、なぜ――妖怪が支配する敵地で巡り会えたから「吊り橋理論」状態に陥ったのか? お、俺もなんだか……。

 いや違う! 信奈に召集された小早川さんが幼稚園に出遅れたのはおかしい! だって厳島神社は、幼稚園のお向かいなんだ! 徒歩一分! 律儀な小早川さんが着替えずに巫女姿で現れたということは、神社から急遽駆けつけたはず! 矛盾している――!

「むーむー! 兄さま、犬千代どのには負けますがねねも鼻が利きますぞ! 知り合いの匂いはだいたいわかりますぞ! その者、小早川どのにあらず! 元康どのですぞー!」

「あぶねー! ナイスサポート、ねね! やはり脱糞公が幻術を用いて小早川さんに化けていたのか! 俺のマスクを外してみそをぶっかけるために、罪もない小早川さんを利用するとは!」

「……たぬ、たぬ、たぬ。よくぞ見抜いたたぬ! 余は操っている者の記憶をすべて読み取れるたぬ! 天下布部というハーレムを築いている相良良晴の弱点を衝いて唇から直接みそを流し込む策を見破るとは、さすがたぬ! だが、余は策士! 河の向こう岸からこの光景を見ているあの嫉妬深い小娘はどう思っているたぬかな?」

「って、ギャーッ? 梵天丸と信奈が一部始終を見ていただとーっ!? しかも距離があるから俺たちの会話までは聞こえていない、最悪だー!」

 梵天丸は待望のはるまげどんが来たとばかりに笑っているが、信奈は当然激怒している! どうしよう。言い訳だ。とにかく言い訳。幸い、河を隔てた信奈は泳げないからこちら側の岸へは渡ってこられないし、今のうちに対策を……!

「よくも小早川と浮気しようとしたわね、こんな時にーっ! 泳げなければ、河を走って渡ればいいじゃない! 邪魔してやる邪魔してやるうう! 右足が水没する前に左足を一歩先へ踏み出すっ! この動作を無限に繰り返せば絶対に水没しないっ、水の上だって全力疾走可能っ! ドドドドドド……!」

「みぎゃあああ! 落ち着くにょだ織田信奈! この河は見た目よりも深いにょだ! 溺れる、溺れる~!」

「な、なにいいいっ? 梵天丸を背負って河の水面を走って駆けてくるだとおおおっ!? 五右衛門でもやらねーよ、そんな無茶な走法!」

「兄さまが恋人を一人に絞らずに乙女心を手玉にとって弄ぶからですぞ、身から出たさびですぞ!」

「弄んでねーよ、ねね! 俺はただ、みんな仲良くをモットーにだな……」

「人はそれをハーレムと呼ぶのですぞ! あーっ兄さま! 狸が逃げましたぞ! しかも信楽焼も河を流れていって、さらに森の奥深くへ消えてしまいましたぞ!」

 小早川隆景の姿を保持したまま、奪吻公は忽然と消えた。怒髪天を衝く勢いの信奈に取り押さえられることを危惧したというよりは、良晴と信奈の潰し合いによる自滅を待つ戦術を選択したらしい。さらに、信楽焼も流されていってしまった。急いで追いかけないと、狸に先に回収されてしまう!

「はあはあはあ。ちょっと沈んで濡れたけど渡りきったあ! 良晴、二手に分散すると言いだしてわたしを放置したのは、小早川と逢い引きするためだったのねー! 絶対に許さなーい! 頭を垂れてつくばいなさい!」

(の、信奈が河を走って渡りきっただと? まずい!)

「なにがまずいの、言ってみなさいよ!」

(思考を読めるのか!? まずい!)

「むーむー。違いますぞ信奈姫。小早川どのは、狸が化けた姿。すべては罠だったのですぞ。もしも彼女が本物ならば、天下一女好きの兄さまは今頃フラフラと惹かれて小早川どのと接吻していましたぞ」

(フォローになっていないぞ、ねね? まずい!)

「……むむ。なかなか説得力のある弁明ね、ねね。それもそうだわ。あんなラッキー大チャンスを前に、人面猿心の良晴が踏みとどまれるはずがないもの。狡猾ね、あの狸妖怪」

(なにい? 信奈が俺を信じてくれただと? いや、むしろまったく信用されていないのか?)

「さっきからモゴモゴうざいのよ、ちゃんと口に出して喋りなさいよ良晴! パワハラ会議のお芝居はもう終わってるでしょっ!」

「あれは俺にとっての日常だよ!」

「幻術を用い、われらを疑心暗鬼に陥らせて内部分裂を図るとは、さすがは狸妖怪の親分にゃのだ。コンビをシャッフルして再度二手に分かれ、信楽焼を探索するにょだ。ククク」

 我が乳母車に乗せたねねを率い右岸を、信奈と良晴が左岸を、と梵天丸が素早く提案。

「なるほど。信奈と俺が一緒にいれば、色仕掛けの計は通じないよな。ねね、しばし別行動になるがだいじょうぶか?」

「むーむー! もちろんですぞ! いざとなれば兄さまが助けにきてくれると信じて頑張るですぞ! 『つーよーくーなーれるー、このーきびだんごーでー』♪」

「なんだか、今日はねねの闘気が十倍増しね……梵天丸とねねのほうこそ注意して!」

「ねねは鼻が利くので問題ないですぞ! 信楽焼を見つけたらのろしをあげて合流ですぞー!」

「ククク。魔物調伏ならば、この梵天丸にマカセタマエ! 古今東西のあらゆる魔物映画のパターンがこのかしこかわいい頭の中に詰まっているにょだ! えろいむえっさいむ!」

「……余計なモノを追加召喚するなよ、梵天丸?」

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