第319話 残された貴族たち(8)

 チェックメイトと騎士団、そしてマルセル領の領都ダスティ市から移住の途中にある住民たちが、食後のデザートとばかりにハイビーの子や蜂蜜に舌鼓を打っている頃、マルセル城に動き出す人影があった。


 マルセル城の廊下を硬質な革靴の音が響く。靴音を響かせていたのは家令のアーサー・ロスだ。

 六十歳を手前にしてしわが目立ってきた顔には、普段の冷静な彼からは想像できない、焦りと戸惑いの色がうかがえた。


 彼の戸惑いを伴った声が無人の廊下に反響する。


「誰かいないのかー? おいっ、誰でもいい、出てこいっ!」


 人の姿どころか気配すらしない。声の主であるアーサーは廊下に反響する自分の声に気味の悪さを覚えていた。

 四十年間、このマルセル城で四十年もの間働いているがこのような事は彼の記憶にもない。


 何かが起きている。本能的にそう察知したアーサーは主人であるマルセル子爵の寝室へと走った。

 廊下を走りながら窓越しに見上げた空は明るく、太陽はまだ高い位置にあるが、既に昼は回っているようだ。

 

 普段であれば彼の主人であるマルセル子爵が昼過ぎまで寝室にいる事はない。

 それでもアーサーは主人が寝室にいるであろうと、半ば確信めいたものを感じて速度を上げる。


 マルセル子爵の寝室へと向かう間、誰の姿も見かけなかった。まるで城内に自分しかいないような錯覚を覚える。

 寝室へと近づくにしたがって不安は大きくなる。『早く、一刻も早く無事な姿を確認しないと』、その思いが悲鳴を上げる心肺機能に鞭打って走る速度を上げさせた。


 目的地である寝室の扉まで二メートルのところで、不意にマルセル子爵の寝室の扉が開かれ、三十代半ばと思われる男性が姿を現す。マルセル子爵だ。

 足元がふらついたのか、壁に寄りかかるようにして立つと駆け寄るアーサーに声をかける。

 

「おう、アーサーか。どうも体調が悪いのか寝過ごしたようだ――」


 本来であれば決まった起床時間に侍女が起こしに来る。起きるのが遅くなる時は侍女が部屋の外で待機しており、マルセル子爵の起床に合わせて朝の支度をするのが常だ。

 朝、起こされた記憶がない事と、軽い頭痛がマルセル子爵を苛立たせた。


「――侍女どもは何をしているんだ? 部屋の外で控えている者の一人もいないとはな。貴様の教育がなっていないのではないか?」


 心配して飛んできた家令のアーサーにマルセル子爵が毒づく。


 起き抜けの軽い頭痛は先程アーサー自身も味わった事もあり、特段心配する事もなくマルセル子爵が無事であったことに胸を撫で下ろした。

 アーサーは『申し訳ございません』との謝罪の言葉に続いて、異常事態である可能性を伝える。


「子爵様、まだ城内全てを見て回った訳ではありませんが、私の部屋からここまで、誰の姿も見ませんでした」


「何を言っているんだ? そんな事よりも、朝食の用意をさせろ。腹が減って仕方がない」


 マルセルが最後に摂った食事の記憶は昨日の昼食だった。彼の記憶が正しければ丸一日以上食事をしていない事になる。


「申し訳ございません、異常事態の可能性がございます」


「どういうことだ?」


 マルセルの苛立ちを隠そうとしない質問にアーサーは努めて冷静に答える。ただし、自身でもその言葉の意味するところに疑問を持ったまま。


「城内の護衛兵と使用人たちが姿を消した可能性がございます」


「正気か?」


「これから、奥様とお世継ぎ様方の安否を確認して参りますが、子爵様は如何なさいますか?」


「一緒に行こう」


 マルセル子爵の幼い息子たちと、一緒に眠っているであろう彼の妻であるリーナの寝室へと向かおうとする矢先、第三の声が彼らの耳に届いた。


「誰か、誰かいないのかっ! 子爵様への取り次ぎを頼む!」


 かなり慌てた様子の叫び声が廊下に反響する。


「衛兵のマルコのようです」


「呼び寄せろ」


 アーサーは『畏まりました』と答えると、足音が響いてくる方へ向かって大声で呼び掛けた。


 ◇


 駆け寄ってきたマルコに、マルセル子爵は彼に敬礼をする間も与えずに質問をした。


「マルコ、衛兵のお前がなぜここにいる。外で何かあったのか? 歩きながらで構わんっ! 非常事態ならその旨、すぐに報告しろ」


 そう言うや否やマルセル子爵は彼の妻と子どもたちの寝室へ向かって歩き出し、すぐにアーサーが続いた。

 マルコは彼らの後を追いかけながら説明を始める。


「私とスコットは昨夜から城門を守備していたのですが、何者かにより眠らされてしまいました。本来であれば朝には交代の要員が来て、交代するはずでした。ですが、その交代要員も来る事無く、先程目が覚めた次第です」


 叱責を覚悟して緊張するマルコにマルセル子爵は振り返りもせず、不機嫌な表情で『続けろ』とうながす。


「街の様子もおかしかったので、私が城内の状況の確認を兼ねてご報告に上がりました」


「街の様子がおかしいとはどういうことだ? 何があった?」


「何があったのかは分かりませんが、その、誰も道を歩いていません」


「お前は何を言っているんだ? 寝ぼけているのかっ?」


「違います。本当なんです、街に誰もいないんです、信じてください」


 食い下がるマルコを無視したマルセル子爵の声が廊下に響き渡る。


「誰か! 誰かいないのかっ! なぜ、誰も返事をせんっ! これはどういう事だっ!」


「先程も申し上げましたが、使用人たちがなんらかの事情で全員城を出ていったか、連れ出されたかかと推察されます」


「推察だ? どんな理由でだっ! 推察と言うなら、その理由と行き先くらい考えておけ――」


 アーサーに当たり散らすような言葉を投げかけた後、マルコに向かって言い放つ。


「――マルコ、報告に来たと言ったな。その報告をしろっ!」


 マルセル子爵の言葉にマルコが弾かれたように話し始めた。


「不審な点が幾つかありました――――」



 城門の外に広がる市街地は、本来であれば荷馬車が行き交い、幾人もの忙しそうにした領民が足早に歩く姿があるのだが、今日に限って人の姿を見かけなかったこと。


 交代の要員を呼びに詰め所に向かったところ詰め所がもぬけの殻であったこと。


 そして、マルセル子爵と家令のアーサーに出会うまで、使用人に会わなかったこと。


 

 それらをマルコが伝え終えたところでマルセル子爵の妻と子どもたちの寝室の前にたどり着いた。


「アーサー、マルコ、お前たちはここで待て」


 そう言い残してマルセル子爵が扉を開けるとベッドで穏やかな寝息を立てる、彼の妻と二人の幼い息子たちの姿があった。

 マルセル子爵は自身の妻と息子たちが無事である事に安堵すると、扉の外に控えているマルコに向かって指示を飛ばす。


「マルコはスコットと共に市街の様子を調べてこいっ! 馬を使え、すぐに走れ! ――」


 妻と息子をベッドに寝かせたまま、寝室を飛び出すと家令のアーサーに向かって指示を出す。


「――お前は私と共に城内を調べる。付いてこいっ!」


 そう言って廊下を駆けだしたマルセル子爵の胸には、嫌な予感が次々と浮かぶ。

 信じがたい話ではあるが、城内にはほとんど人が残っていないと、確信めいた予感が彼の胸中を支配する。それでも、もしかしたら誰かいるかもしれない、とすがるような気持ちでいた。


 廊下を駆けるマルセル子爵の胸に幾つもの疑問が去来する。


 なぜだ、何故誰もいない。

 いなくなった者たちはどうやって消えた? 誰にも気づかれる事無く二十人以上の集団が消えられるものなのか?

 消えたとして、どこへ行った? 


 どれも回答が見つからない。

 それどころか、 マルセル子爵は街や城内から人がいなくなった事を認めている事実に苛立ちを覚える。


 主人の言動の端々に苛立ちを見て取った家令のアーサーはやんわりと声を掛ける。


「子爵様、落ち着いてください」


「ただちに城内の捜索をしろっ! 城内に残っている者をすぐに集めろっ! 食堂だ、食堂に集めろっ!」


 そう言うと、マルセル子爵は食堂へと向けて足を速めた。


 ◆

 ◇

 ◆


 結局食堂に集まった者はマルセル子爵、彼の妻であるリーナと二人の息子を含んだ十二人だけであった。

 彼の家族以外は家令のアーサーとマルコをはじめとする七人の衛兵たちだ。

 

 その彼らも最後に駆け込んできた衛兵から『領都に人影無し』のと報告を受けると、慌てて食堂を飛び出した。


 そして今、マルセル子爵の家族を含めた全員が城門を出てフラフラと市街地を歩いている。

 ある者は信じられないものを見るような目で、ある者は怯えた目で、ある者はただ茫然として領都の街並みを眺めていた。

 

 廃墟、そう言うにはあまりにも生活感がある街並み。それこそ次の瞬間、角から馬車や人が出てきてもおかしくない、誰もがそう思う光景。

 だが実際には誰かが出てくるどころか、人々の会話する声も、動く気配も無かった。


 皆が茫然とする中、マルセル子爵の声が響く。それはようやく絞り出した力のない言葉。その声には先程まであった苛立ちや怒りといった感情は感じられなかった。


「なぜだ? なぜ誰もいない。万単位の住民がなぜ消えた? どうやって? ――」


 彼は無人の市街地から家令のアーサーへと視線を移す。アーサーに向けられたその瞳はどこか虚ろだ。


「――何があったんだ? 皆、どこへ行ってしまったんだ?」


 自分の理解を超えた出来事の連続に、マルセル子爵の中に芽生えた混乱と恐怖の感情が急速に膨れ上がる。

 アーサーは静かに首を振り、自分にも理由が分からない事をマルセル子爵に伝え、さらに先程三人の衛兵を近隣の村々へ走らせた事を付け加えた。


 次の瞬間、一人兵士が叫び声に続いて堪えていた恐怖を言葉にして吐き出した。


「他の村だってそうだ、同じだっ! 人なんているはずないっ! 女神様の怒りに触れたんだっ! 女神ルース様がお怒りになったんだっ!」


「馬鹿な、お怒りって、何に怒っているんだ?」


「そうだ、俺たちが何をしたっていうんだ?」


 しかし、反論する衛兵たちの言葉に力はなかった。


 ◇

 ◆

 ◇


 彼らが無人の市街地で絶望と恐怖に震える中、近隣の村々へ調査に赴いた兵士が、蒼ざめた顔で帰還したのは三時間程経ってからだった。

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