とある、弟の話

はじめちゃん、肇ちゃ~ん! そろそろアルバイトに行く時間じゃあないの~?」


「ん……? あれ、言ってなかったっけ? もう辞めたんだよ、バイト」


「ええっ!? 急に、どうして……!?」


 ……とある日の、とある家庭。その家の息子と思わしき青年は、自分を起こしに来た母親へとそんな衝撃的な一言を発していた。


 既に時刻は昼の十二時を回っており、普通の人間ならば仕事や勉学に励んでいる時間だろう。

 そんな時間にようやく起床したその青年……阿久津肇は、呑気に大あくびをした後で驚きの表情を浮かべている母親へとこう述べる。


「僕もよくわからないんだけどさ~、なんかあの店、炎上してるらしいんだよね。そんなところで働き続けて僕の経歴とか受験とかに影響が出たらマズいからさ、さっさと逃げることにしたんだ」


「そ、そうだったの……折角見つけたアルバイト先だったのに、残念ね……」


「しょうがないよ。人生ってそんなもんだしさ。運が悪かったと思って、切り替えることにするよ」


 肇が言っていることに嘘はない。彼のアルバイト先であるコンビニが現在進行形で炎上していることも、そんな場所で働き続けたら彼の人生に悪影響が出かねないことも正しくはある。

 だが、彼はそのコンビニの炎上の原因が自分にあるという何よりも重大な事実を母親に秘匿していた。

 店長の言いつけや各店舗に配布された書類の内容をうっかり忘れてキャンペーン開始前にクリアファイルの配布を行ってしまったことで大バッシングを受ける羽目になった肇は、その責任と一緒にアルバイト先から逃げ出したのである。


 無邪気に、悪意なんて一切感じさせない笑みを浮かべて母親からの同情を浴びる肇であるが……彼は、親から可哀想な人間として見られる方法を熟知していた。

 自分は何も悪くないのに、周囲の環境と巡り合わせが悪いせいで不幸に襲われているのだと、そういうふうに周囲の人間に思わせる方法を十八年の人生の中で身に付けた彼は、そのままあっけらかんとした様子で言う。


「それでなんだけどさ、そろそろ受験も近付いてきたし、いい機会だと思って勉強に集中しようと思うんだよね。バイト先を探して大学受験にまた失敗したら、それこそ何の意味もないわけだしさ」


「え、ええ……そうね、それがいいわ! 次こそ大学に合格するためにも、今は勉強に打ち込むべきよね! 頑張って、肇ちゃん!」


「ありがとう、ママ! ……ごめんね。零の推薦合格を無理矢理取り消したせいで、高校から色々言われてるんでしょう? 僕のせいでママとパパに迷惑かけちゃってるよね……」


 しょんぼりと俯き、申し訳なさそうに母へと謝罪する肇。

 当然ながらこれも同情を誘うための演技なのだが、それにコロッと騙された母親は落ち込んでいるように見える彼へと甘く優しい声で励ましの言葉を投げかけ始めた。


「大丈夫、大丈夫よ! 別に私もお父さんも迷惑をかけられただなんて思ってないわ! あなたが幸せになってくれれば、私たちはそれでいいの。あなたが幸せを掴み取るその日まで、私たちはあなたのことを応援し続けるからね……!」


「ママ……! ありがとう……!!」


 ……彼女の言うことは半分が正しくて、半分は間違っている。

 確かに肇のためにした行動のせいで阿久津家は途轍もない危機に瀕しているが、そのことを彼女は後悔していないし迷惑とも思っていない。

 かわいい息子のためならば、どんな苦難をも笑って受け入れるべきだというある意味では愛を感じさせる想いの下に肇を甘やかす母親であったが、彼女は、自分たち以外の人間が被っている迷惑を一切考えていなかった。


 推薦枠を潰され、翌年以降の受験に大きな影響を出すことになってしまった学校側のことも、本来その枠に入れたはずの生徒たちのことも……この場にはいない、本当ならば幸せな人生を送っているはずの零のことも、彼女たちは何も考えていないのである。


 自己中心的であり、行き過ぎた愛情を注ぐ存在でもある母に優しく慰められた肇は、満面の笑みを浮かべると共に部屋の扉を閉め、机にドガッと腰を下ろすと、そのままスマートフォンを操作してゲームをプレイし始めた。


 勉強なんて、努力なんて、するはずがない。辛く面倒なことからはすぐに逃げ、楽な方へ楽な方へと流れる……それが、阿久津肇という人間がこれまでの人生で身につけてしまった、怠惰な習性だ。

 大学受験も無理に今年成功する必要なんてないし、もう一年くらい留年したって構わないだろう。

 親が健在な内は何もせずとも養ってもらえるし、のんびりとニートライフを満喫しようではないか。


「あ~っ! 新キャラのピックアップ、今日からじゃん! 後で親のカード使って課金しなきゃな~!」


 自分は助けてもらって、何かをしてもらって当たり前。逆に誰かを助けるだなんて面倒な真似は絶対にしない。

 困難からはすぐに逃げるし、失敗の責任を取るつもりもさらさらない。

 狭く小さなこの家というコミュニティの中で、自分を愛してくれる人たちだけに囲まれ、甘やかされて生きる肇の性格と生活は……面白いくらいに、兄である零と何もかもが真逆だ。


 口笛を吹きながら、手にしていたスマートフォンを机の上に置いた肇は、鞄の中にしまってあった蛇道枢の……自分と兄にそっくりなキャラクターが描かれたクリアファイルを取り出すと、無邪気に笑う。

 そして、その笑みを一瞬で引っ込めた後、手にしたハサミでクリアファイルを真っ二つに切り裂いてみせた。


「家を追い出されて何をやってんのかと思ったら、Vtuberだなんて妙なものになっちゃってさ……マジでウケる。まあ、せいぜい頑張ってよ。お前が稼いだ金は、弟である僕が食い潰させてもらうんだからさ」


 肇の浅い知識によれば、Vtuberというのは案外儲かる仕事らしい。

 全国チェーンのコンビニとコラボするくらいの知名度があるということは、零はそこそこ給料を貰っているのだろう。


 詳しい額はわからないが、それだけ稼いでいるのならば、兄である彼が弟である自分を助けるのは当たり前のこと。

 自分の快適なニート生活を助けるために、兄には金を出し続けてもらおうではないか。


「ホント、僕って幸運な人間だよね。両親も兄も、僕のために頑張ってくれちゃってさ……僕は何にもしないでいても、幸せが運ばれてくる。愛される人間って幸せだな~!」


 狭く暗い、一人きりの部屋。その中で笑みを浮かべながらそう呟いた肇が天井を見上げる。

 その表情に、声に、疑いや自分の状況に対する危機感はまるで感じられず、ただただ運ばれてくる幸せを享受するだけの存在として広く過酷な外の世界に飛び出そうともしない彼は、ある意味では零よりも不幸な存在なのかもしれない。


 ただ、そのことを指摘したとしても聞く耳を持っていないことを考えると……そんなふうになってしまったのも自業自得としか言いようがなかった。


そんな彼が兄と再会するのは……まだまだ先の話である。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る