五人目・阿久津零

「え……?」


 信号待ちの最中、予想外の答えを口にした零へと驚いた薫子が視線を向けてみれば、彼は窓の外を見るようにして彼女から顔を背けていた。

 エンジン音だけが響く車の中、零は道を歩く家族を見つめながら淡々と己の心境を語っていく。


「生まれてこの方、家の中には居場所がなくって、新しく居場所にしようと思った大学への切符も破り捨てられて……残念ながら、俺の居場所はこの世界のどこにもないってことがわかっちまった。だからちょっと憧れるんですよね、職場でも教室でも他のどこだっていいから、俺が存在してもいい場所ってやつに。俺の存在を認めてくれる誰かがいる場所に行きたいなって、そう願っちゃうんですよ」


「………」


 上手く言葉が出てこない。今の零の話を聞いて、何と返したらいいのかがわからない。

 ただ、薫子の胸の中ではとある感情が渦巻き、少しずつ熱を帯び始めていた。


「すいませんね、こんな悲しいだけのポエムに付き合わせちゃって。別に今、やりたいこととか就きたい職とかがあるわけじゃあないんで、住み込みのアルバイトでも探してとっとと出ていけるよう、頑張りますよ」


 かっかっかと自分の情けなさを笑い飛ばすようにそう言った後、前を向いた零が遠い目をしながら呟く。


「……後は、はじめの奴が心配だな。あの馬鹿両親にこれからずっと甘やかされながら過ごしたら、どんな人間になっちまうんすかね? 嫌いだし憎くもあるっすけど、やっぱ血の繋がった弟だしなぁ……」


 お人好しだと、薫子は思った。

 いったいどうやったらあの環境でこんな他人を思い遣れる人間が育つのかと、不思議で不思議で仕方がなかった。


 青信号に変わると共に車を走らせながら、真っ直ぐに道を進みながら、彼女は思う。

 この夜の邂逅は、神が自分に与えてくれた最大のチャンスなのかもしれない、と……。


 人生を大きく狂わされた状況を受け入れてしまえる強靭なメンタル。

 自分を陥れた相手であっても情けをかけられる人の良さ。

 長年の付き合いから寄せることのできる、その人柄への信頼。


 そして今、そこに心の底から顔を出した小さな夢が加わった。

 自分が求めていた全ての条件を満たす男が、薫子の前に現れたのである。


 だが、それでもまだ薫子は決断できなかった。

 零を信頼していないのではない、彼にこれ以上の重石を背負わせることを悩んでいるのだ。


 今、【CRE8】から男性タレントがデビューすれば、その人物は多かれ少なかれファンたちからのバッシングを浴びることになる。

 女だらけの事務所に男なんていらないと、そういう意見が飛び交うことは目に見えていた。


 居場所が欲しいと願う零にそんな言葉がぶつけられる立場に立ってもらうというのは酷な話以外の何物でもない。

 バーチャルの世界にすらも自分の居場所はないのかと、強いショックを受けることは間違いないはずだ。


 自分の計画は、甥の心を犠牲にしてまで叶えるようなものではない。

 零のことを考えるならば、こんなことは提案しない方がいいはずだ。


 だが……同時に薫子はこんなことも思っていた。

 零ならば絶対、そんな苦境を乗り越えてくれるはずだ、と。


 どんなに辛い経験も、心無い言葉も、零ならば心を折られることなく受け止めることができる。

 強いのだ、彼は。諦めの感情を前提とした強さではあるが、彼は薫子の想像を絶する強固さと回復力を併せ持つ精神を有している。


 もしも、もしも……その強い心と彼自身の夢が組み合わさり、燃え上がったとしたら?

 強靭な精神に夢という名の燃料が注ぎ込まれ、何かの拍子で火が付いたとしたら?

 それはきっと、零の未来を大きく変える出来事になる。そして、見る者全てを魅了する力強い炎となるはずだ。

 

 諦めという感情を消し、何かの目標に向かって突っ走る彼の姿は、多くの人の心を動かすものになるという確信がある。

 そして、零こそが2期生に足りない何かをもたらしてくれる存在であると、薫子は同時に確信していた。


 幼少期から今に至るまで、零は家族という存在の闇と直面しながら生きてきた。

 その闇に負けず、それでも人の醜さや弱さを否定せずに今日まで歩んできた。


 そんな彼ならばきっと、他者の苦しみを理解し、共に分かち合える存在になれるはずだ。


 沙織の傷を受け入れ、スイのトラウマも共有し、天の脆さを支えることができる、そんな人間として同期たちと共に在れる。

 有栖の弱さに寄り添い、彼女の苦しみを否定せず、一緒に歩んでいくことができる。零の存在はきっと、彼女たちの心の支えになる。

 そうすれば零の居場所がそこに生まれるはずだ。誰かの弱さに寄り添えるからこそ、彼は自分の居場所を見つけられるはずだ。


『Vtuberとして活動することで、自分であって自分でない別の存在になることで、その夢が叶えられるんじゃないかって、そう思っています』


 そんな有栖の言葉を思い返した薫子は、ゆっくりと速度を緩めて道路の脇に車を止めた。

 急な彼女の行動に怪訝な表情を浮かべる零の方へと顔を向けた後、僅かな迷いを抱く。


 この道を進めば、自分と零は大きく傷付くことになるかもしれない。彼に余計な苦労を背負わせる過酷な運命に導くことになるかもしれない。

 だが、その先には零が求めている何かがあることと、多くの人々がそんな彼の姿に魅了されるであろうことを確信した薫子は、小さく息を吸ってから口を開いた。


「……零、一つ提案があるんだけどさ――」


 この一言が、多くの人々の運命を変えることになるという予感はあった。

 だからこそ、薫子はそれを言葉にする。自分の甥が見せる、紅蓮の輝きが多くの人たちの道を照らすことになると信じて。


「――あんた、Vtuberやってみない?」

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