スイッチ、オン



「いや、今自分のことなんて呼んだっすか? 出来ればもう1回、同じように呼んでほしいんすけど……!!」


 どうしてだか、意気を荒げながら鋭い眼光をこちらへと向ける梨子の姿に気圧された零は、ある種の威圧感を感じながら表情を強張らせた。

 いったい、何が彼女をここまで急な変貌に導いたのか……と疑問に思う中、零は梨子の要望のままに再び彼女へと先程口にした呼び方で呼んでみせる。


「え、え~っと……母さん、っすかね……?」


「……もう1回」


「か、母さん?」


「その前に名前を付けて! ワン・モワ・プリーズ!!」


「しゃ、しゃぼん母さん? それとも梨子母さんっすか? え? これに何の意味が……?」


 よくわからないが梨子に言われるがままに彼女のことを母さん呼びし続ける零であったが、段々とエスカレートしていく流れにちょっと困惑気味になっている。

 この行動に何の意味があるんだ? と思ったことをそのまま直に梨子へとぶつけたところ、タイミングを見計らったかのように雑務を終えた薫子が食事を取りにリビングへと姿を現した。


「ふぁ~、疲れた……零、私にも飯を頼む。梨子、食べ終わったんならとっととデザインの仕事に戻りな! 私がいないからってサボったりなんかしたら、また折檻してやるよ!」


「……ええ、はい。わかってます。大丈夫、安心してください。なんかこう、今、自分、心の底から描きてぇ~……って気分なんで」


 厳しめの薫子からの叱責を受けても、梨子は一切動じる様子を見せない。

 自分が使った食器を洗い場に下げ、これまでの情緒不安定だった姿が嘘であるかのように落ち着いた雰囲気を見せた彼女は、リビングから立ち去る際にとても軽やかな跳躍を二度繰り返すと、ぐりんと腰を捻って妙な体勢で振り向きながら、大声で叫んだ。


「可愛い枢坊やのために、ママ、頑張っちゃうっす!! うおおおおおっ! 今の自分は最初から最後までクライマックス!! 大切な息子にかっちょいいおべべ着せてやるっすよぉぉぉっ!!」


 ……とまあ、逆に情緒が不安定なんじゃないかと思わせる叫びを上げる梨子の顔は、実に決意に満ちた清々しいものであった。

 大きく見開かれた瞳の中には熱い炎が燃え上がっているし、これまで流していた涙もその熱で蒸発し切っているように見える。


 まさか、自分の『母さん』呼びによってここまでやる気を出すだなんて……と、零が唖然とする中、どたどたと盛大に足音を響かせながら仕事場へと向かう梨子の背を見送った薫子は、安堵の溜息を吐きながら呆然としている彼へと言う。


「やれやれ、ようやくスイッチが入ったか。これでもう安心だね」


「ど、どういうことっすか、薫子さん?」


「言っただろう? 梨子の奴は一度ドツボに嵌るとなかなか抜け出せなくなる、って……これまではそれが悪い方面に働いてたが、それが逆転した。いい方向にあいつの集中力が作用し始めたんだよ。こうなったあいつは凄い。多分、明日の朝には決定稿を描き上げてるはずさ」


「明日の朝ぁ!? いや、でもまだどんなデザインにするかも決まってないんじゃ……?」


「気になるなら見てきてご覧よ。きっと、それであんたも納得するだろうからさ」


 気の抜けた様子で皿に盛られたカレーを食べ始めた薫子の言葉に従って、零は梨子が作業を行っている仕事部屋へと向かった。

 足音を殺してこっそりと扉の前に立った彼は、息を潜めながらゆっくりとドアを開き、中の様子を伺う。


 ほんの1時間前まで、そこで自分たちとコントのようなやり取りを繰り広げていた梨子は、PCの前の椅子に座り、デザイン用のタブレットや画用紙、PCを慌ただしく操作しながら息子の新衣装デザインとその決定稿を凄まじいスピードで仕上げている真っ最中のようだ。


「……1パターンだけの衣装で水着の蛇道枢を表現しようとしたから上手くいかなかったんだ。下半身はオーソドックスなハーフパンツ型の水着でラフさとスポーティな雰囲気を両立させつつ、上半身は裸にラッシュガード、Tシャツ、Tシャツ&ラッシュガードの3パターンを用意する。あまり盛らずに適度な割れ方の腹筋をアピールすることで男性の力強さを感じさせつつスタイリッシュさを損なわないようにして、髪型も多少崩して濡れた雰囲気を感じさせる湿らせ風にデザイン。あとは、上半身だけでもここが海だってことを感じさせるような何か……蛇道枢のキャラクター性とマッチする海らしさ……あれだ!」


「……すっげぇ、まるで別人じゃん」


 ペンを持つ手の動きが、デザインを生み出すまでの速度が、それら全てを支えるイメージの明確さが、これまでと格段に違っていた。

 元々そうするつもりだったとしか思えないような勢いで頭の中で描いたイメージを目の前のタブレットへと出力していく梨子の表情は、真剣そのものでありながらも口元だけがどこか楽しそうに歪んでいる。


 彼女は天才とも、努力家とも、また少し違うのかもしれない。

 ただ純粋に自分の生み出したVtuber息子に最高の衣装を着せてあげたいという親心で動きながらも、それを自分の楽しみとして昇華した梨子の勢いは、最早誰にも止めることは出来なさそうだ。


「自分の息子は世界一ィィッ!! 他の【CRE8】所属Vtuberにも負けない最高の衣装を作ってあげるから、見てろよ見てろよ~っす!!」


「ははは……! なんか色々、すげえ人だなぁ……!!」


 改めて、凄まじいキャラクター性と才能を持つ、不安定だが面白過ぎる自身の母親の姿に笑みを浮かべた零は、薫子が彼女のことをVtuberとしてデビューさせたことにも納得していた。

 こんな面白いキャラ、デビューさせないなんてもったいない……きっと、自分の叔母もそう考えたに違いない。


 そりゃあ、根強いファンだってつく。なんだかんだで見捨てられないこのダメ人間が愛されキャラとして人気を博すことなんて、簡単に想像が出来る。

 その人気を利用すれば、Vtuber100人のデザインを担当することも夢ではないと……そう、事務所にとっても梨子にとってもメリットのあるデビューは、正にWIN-WINの関係というやつだ。


 デザイナー、絵描きとしての腕前もさることながら……これほどまでにVtuberとして最適な人材が他にいるとは、零には到底思えない。

 やはり、薫子の人を見る目は確かだったと、叔母の判断の正しさに小さく笑みを浮かべながら、数時間前とは真逆の安心した気持ちになった零は、梨子の仕事を邪魔せぬよう、こっそりと彼女の部屋の前から退散するのであった。


 ……それからさらに数時間後、朝日が昇る頃。

 机に顔を伏せて泥のように眠る梨子の目の前にあるPC画面には、複数枚のデザイン画が表示されていた。


 前方、後方、側面から見た、新たな衣装を身に纏った蛇道枢の姿と、それに対するオプションパーツと差分の絵を諸々含んだその画像を確認した薫子は、満足気に頷いた後、自分のPCへとそのデータを転送し、労をねぎらうようにして梨子の肩を叩き、言う。


「お疲れさん。あとはこっちに任せときな。あんたの息子に最高の衣装をプレゼントしてやるよ」


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