88.離さない手は冷たかった
皇帝陛下の隣に、あの女は相応しくない――誰を隣におくか決めるのは僕自身だ。お前に決める権利はない。
私は皇帝陛下のために――だったらさっさと死ね。見苦しい嫉妬で僕の小鳥を傷つける者に、生きる価値はなかった。
震える肩を引き寄せる。わずかな時間でも離れるのではなかった。化粧に同席することはなくても、僕が部屋の前まで送り、中を確認してから彼女を入れるべきだったんだ。小鳥は常に狙われている。奪われたくなければ、手元から離さない。
この宮廷には、どうしても粛清し切れない者がいた。当人は使い物にならないが、親や子供が有用な場合は放置している。それらがトリシャを傷つける可能性を見落とした。目に見える場所でユリウスを断罪すれば、実の弟でさえ処断した姿に手出しを控えるだろう、と。
甘かった。あの女は舞踏会の会場にいなかったのだろう。断罪の場を見ていないらしい。弟と同じ言い訳をしたのは、そのせいだと思われた。僕のためを思うなら、自害して果てろ。吐き捨てる言葉は辛辣で、喉の奥に引っかかって飲み込み切れない。
トリシャの耳に聞かせたくないから、僕は無言で彼女を現場から引き離した。騒動を聞きつけたソフィが駆け寄り、冷えたトリシャの姿に唇を噛む。だが泣いたり騒いだりはしなかった。それでいい。
「トリシャ、この部屋を使おう。僕の私室だったから安全だよ。お風呂で温まってから着替えよう」
「いや……お願、い……いて?」
「姫様、皇帝陛下は男性ですから」
着替えの場に同席できない。ソフィが濁した後半部分を振り払うように、トリシャは髪を乱して首を横に振った。僕の袖を掴む手が動いて、手首を掴まれる。そのまま強く握られた。
軽く痕が残りそうな強さで、震えるトリシャの手は僕を離さない。そんな場合じゃないのに、狂喜が胸に湧き上がった。彼女は今、僕だけを頼っている。僕を見て、僕に一緒にいてくれと強請った。
「わかった。じゃあ、こうしよう。僕はトリシャが安心できるように側にいる。でも淑女の着替えや入浴を見ないよう、目隠しをするから。それで許してくれるかい?」
小さく縦に動いたトリシャの顎を指で持ち上げて、唇の端と頬にキスをする。冷たくなってるね。花瓶の水が冷えていたのか。それとも嫌がらせのために氷でも入れたかな。目を細めたけれど、トリシャに見られる前に布で隠した。怯えさせたくない。
「これでどう? トリシャと手を繋ぐよ。だから危ない場所は教えてくれる?」
「わか、ったわ」
そんな簡単なこと、トリシャに頼まなくても構わない。元が僕の私室だったから、家具の配置から部屋の間取りまで頭に入っていた。それでも頼むのは、彼女の意識を逸らすため。先ほどの恐怖と屈辱を、思い出させないためだった。
握るトリシャの右手が一度解かれて、左手を繋ぐ。しゅるりと絹が落ちる音がした。着替えるために手を離したのか。
視界が閉ざされた分、外からの情報は耳に頼る。部屋の外でニルスの足音がして、マルスと何か話してるね。アレスは先ほどの現場に置いてきた。剣を抜く許可を出したから、あの不作法な女は処分した頃だろう。誰の娘だったか。
しゃらんと飾り物を置く音がする。考え事から引き戻された僕は、トリシャのしゃくりあげるような呼吸に気づいた。ああ、また涙を溢したの? 声を殺して泣く小鳥が哀れで、僕は後悔と怒りで唇を噛んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます