78.雨の日の小さな記憶
翌朝は珍しく雨だった。しとしとと濡れる窓の外を見ながら、トリシャと朝食を済ませる。コルセットを締めるのは午後以降で、午前中はマッサージや肌の手入れに費やすらしい。つまり、男の僕は蚊帳の外だ。こういうお手入れに憧れたことがある。そんな幼少期の話を聞いて、ソフィがこっそり気合を入れていた。
雨にかこつけて昔話を聞いてみる。幼少期の思い出になると、トリシャは少しだけ口が重くなった。僕がすべて知っているからなのか、それでも話してくれたけど。
「ローゼンタール公爵様には、美しいご令嬢がおられました。幼い頃ですけれど、妹にあたる彼女がお人形を頂いたのです。羨ましくて、でも私は買ってもらえません。ですから少しだけ触りたくて……触れたら叱られたことを思い出しました」
それは雨の日の出来事だったらしい。まだソフィもいない頃、ローゼンタール公爵は、押し付けられた大賢者の子を持て余していたのだろう。幼子に罪はないというのに、実子と差別するなど惨いことをしたものだ。その頃のトリシャに人形をプレゼントしたら、きっと花のような笑みを見せてくれただろうに。
「雨に関する思い出は暗い物ばかり?」
「いいえ。雨の日は公爵夫人の体調が優れないため、呼び出されずに部屋で過ごすことが出来て。いつも叱られてばかりの私は、雨の日が大好きだったんです」
うふふ……秘密です。まるで悪戯を告白するみたいに、トリシャは微笑んで教えてくれた。壁際のソフィが号泣してるから、そろそろ話を切り上げた方がいいね。よく見たらニルスの目も潤んでる。まあ……僕も人のことが言えないけど。
瞬きして誤魔化し、にっこりと笑う。目の奥が熱いのは寝不足の所為だね。
「エリクは何かございました?」
自分だけ話すのは恥ずかしい。そう言わんばかりに、トリシャが昔話をせがむ。そういえば、僕自身の話はしてなかったっけ。
「雨の日……迷い込んだ子犬を拾ったことがあるよ」
一番記憶に残る雨の日は、父と名乗る男の首を刎ねたこと。すでに刎ねた王太子と次兄の首を持つ双子の騎士を従え、僕はあの男に言い放った。そろそろ退位の時期です――と。怒号を上げる煩い男の首を刎ね、返り血を死んだ皇帝のマントで拭った。
さすがにこの記憶は話せないので、幼少時の当たり障りのない話を口にする。これはニルスも知らないんじゃないかな。
「子犬ですか?」
「うん、足が太くて牙が立派で……がうっと鳴いた。半年ほど皆に隠れて餌をやったんだけど、ある日来なくなったんだ。後で知ったけど、宮殿に狼が出たから追い払ったみたい。あの子犬、狼の子だったんだよ」
笑ってしまう。何も知らずに名前を付けて撫でていた。向こうも僕を襲おうとしなかったし。
「……陛下、それはもしや」
「そう、時々宮殿に遊びに来るあの狼だよ」
「会えるのですか?」
嬉しそうに声を上げたトリシャの表情は笑みに彩られ、とても魅力的だ。だから約束した。
「舞踏会が終わった頃に顔を出すと思うから、会わせてあげるよ」
「必ずですよ」
しっかり指をからめて約束させられ、準備に立つトリシャを見送る。申し訳ないけど、少しの間動けなかったのは許してほしい。深呼吸して鎮めた己に「あと少しの我慢」を言い聞かせて、僕はニルスと寝室へ下がった。
「仮眠をとろう」
「はい、昼過ぎでよろしいですか?」
「ああ。ニルスも休むように」
きっちり命令しておかないと、準備だなんだと動き回りそうだ。釘を刺して、僕はベッドに潜り込む。指先にまだトリシャの熱が触れているような興奮の中、無理やり目を閉じた。
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