第2話 ゴミだめの奥底へ

 シャワーの音と湯気で満ちた浴室で、あたしは男の背中を洗っていた。


「ひとりで洗えるよ」

「いいじゃん。サービスだよ」


 男はメガネをはずして髪を上げるとそこそこ見れる顔をしていた。だからこのぐらいのサービスはしてあげてもいいかなという気が起きた。それと、


「前も洗ってあげようか?」


 あたしよりはまともな感性を残していたこの男を、あたしの感性と同じ色にゴネゴネにねり混ぜて汚してやりたい気持ちになったのだ。

 あたしがそう訊きながら、からみつくように胸を押しつけて背中から腕を回すと、男のやせていても筋肉質な肩が拒絶するように固く強張った。あたしがムッとしてさらに身体を密着させようとすると、男は困惑した声で口を開いた。


「……いっぱい声をかけられていたのに、なんで僕を?」


 そう訊かれてあたしの動きが止まる。この人はいまさらなことばかり言う。この先のことを考えたら理由なんて全部がいまさらだ。あたしは興ざめして身体を離してあげると、素直に答えてあげた。


「詩」

「詩?」

「プロフの」


 そこで男が「ああ」と言った。


「汚れちまった悲しみに、今日も小雪の降りかかる――」


 そうそれだ。悲しくて、怒っていて、でもどうしようもなくて、無力な詩。


「なんかよかった。自分の?」


 男はあたしを振りむいて少しむずかしい顔をすると、軽く息を吐いてさびしそうに首を横に振った。


「……いや、中原中也っていう昔の詩人の」

「ふーん」


 その表情の意味がわからないあたしは少し黙ったけれど、男はこれ以上この話を続けるつもりはないようで、沈黙にシャワーの音だけが響き続けた。流れを失った会話は、排水口につまった髪の毛を揺らしながらたまっていく水のように気持ち悪くわだかまった。


「なんで『ゴミ』なんていうアカ使ってんの?」


 あたしはイラついた気持ちをぶつけるように、そんなことを訊いた。自虐的なくせにどこか開き直れていない感じのこいつの理由を知りたくなったのだ。男はすぐに答えずに、排水口につまった髪の毛を指先で寄せ動かしながら、ためらいがちな小声で言った。


「……名字だよ。五味」


 あたしは目を丸くした。排水口の水が渦を巻いて抜けていく。


「本名なの? なんかウケる」

「ウケないよ」


 五味は深々とため息をついたけれど、あたしは妙にツボに入ってクスクスと笑い続けた。


「それでJKとなんて、マジでゴミ野郎になっちゃったね」

「だからウケないよ」


 あたしがからかうと五味はいじけたようにそっぽをむいた。あたしはまた笑う。


「……愛無さんは?」


 話をそらそうとしたのか、やり返そうとしたのか、それとも興味が湧いたのかは知らないけれど、笑い続けるあたしに五味が訊ねた。あたしは笑いをおさめて言った。


「別に知る必要なくない?」

「まあ、そうだね……」


 突き放す。あたしはあたしの理由を話すつもりなんてこれっぽっちもなかった。愛が無い理由なんてそんなみじめなものを、同情を買う道具にするにはあたしの怒りは大き過ぎていたし、こんなくだらない感情は永遠にだれにも見えないゴミだめの奥底へと埋めてしまうのが一番のものだってあたしは信じていた。

 だからあたしは今日この夜、この男を選んだのだ。


「そんなのよりも、今度はあたし洗ってよ」


 誘う。五味の背中に指を触れて、背骨の線をなぞるようにすべらせて、媚びた声を出す。汚してやりたいという気持ちが大きくなった。ゴミのくせに。もう後戻りなんてできないということを思い知らせてやりたくなった。

 けれど五味は、あたしの手をすり抜けて立ち上がった。


「先に出てる」

「……冷たいね」


 あたしの恨み声に、五味は浴室の扉を開けながら言った。


「……そういう関係だろ?」

「そだね」


 外の冷たい空気と入れ替わって、五味は浴室から出て行った。

 残されたあたしは身体を洗う。

 強くこすってひりついた肌を、シャワーが痛く、熱く濡らした。

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