第12話 たとえ叶わぬ願いとしても
そう言うと、コンは僕の首に後ろから手を回す。そのままキュッと抱きしめられた。
「ちょ、ちょっと? コン? コンさん? え? えっと……どうしました?」
あまりに突然の事態に、ロリコンスイッチを押された僕は挙動不審になってしまう。結構強く抱きしめられているため、後ろを振り返ることもできず、コンの表情は窺い知れない。
「ゆーた、くれぐれも鳥居を直そうじゃとか、島の皆にお参りさせようなどと思わぬようにな」
その言葉を聞き、僕はさらに硬直してしまった。
「なんで……なんで、僕がしようとしていたことを……?」
「なんだかんだ言いながら優しいお主のことじゃ。それぐらいのことは想像に難くない」
ふふっと笑うコンの声が聞こえる。それは嘲ったりするような笑いではなく、優しい、それでいてどこか困ったような笑みであることは、表情が見えなくてもよくわかった。
「一度神を呼んでしまった後の神社に不用意に手を加えることは、禁忌とされておる。宮司や神主がそうするならともかく、素人であるお主が下手に鳥居に手を触れれば、何か良からぬことが起きてもおかしくはない」
「けど――」
「それに」
僕の言葉を遮って、コンは続ける。
「それにどちらにせよ、我の神としての務めはもうすぐ終わりじゃ」
コンの言葉に、僕の時間が一瞬止まった気がした。まるで死を覚悟した末期患者のように、悟りと諦めを多分に含んだ声色だったからだ。
「……どういうことだよ」
「さっき話したとおり、神というものは、人間に必要とされて初めて存在が許されるのじゃ。ということはつまり、裏を返せば、人から必要とされなくなったらその瞬間、神はその存在が許されなくなる」
コンの声は淡々としている。しかし、僕の首に回された白く細い腕は、先ほどよりも強く僕を抱きしめているようだった。
「鳥居が完全に壊れた時、我はその役目を終えたとみなされる。そして役割を終えた神は、この世から消える」
消える、という一言が僕の心と身体を強く締め付けた。息が苦しくなる。
「消えるって……?」
「文字通りの意味じゃ。パッ、と消えていなくなる。神に死という概念は無いのでな。ある日突然、この世から我の存在が消えることになる。……まあ、厳密に言えば、我がこの神社での役目を終えたとされてからしばらくの間は、他の場所で神になるチャンス、再就職期間みたいなものが与えられるのじゃが……。信仰などとうに薄れてしまった今の世の中じゃ、まあ、難しいじゃろうな」
「じゃあなおさら鳥居を何とかしないと! 宮司でもなんでも本州から呼んで来ればいいだろ! お前このままじゃ消えちゃうんだろ⁉ まだ間に合うんだからできる限り手を打てよ‼ そんな簡単に諦めんなよ‼」
目が熱くなり、喉の奥がクッと痛くなる。油断するとすぐに声が震えてしまいそうだった。
僕の叫びに、しかし、コンはゆっくりと首を横に振ったようだった。
「ダメじゃ。さっき言ったじゃろう? 人から必要とされなければ神はおしまいじゃと。仮に鳥居が直ったとて、我が人から必要とされなければ意味がない」
コンが僕の後頭部に自分の額をコツンとぶつけた。
「あの島からはもうすぐ、人がいなくなる」
コンの熱い吐息が僕の首筋にかかる。心なしかコンの声は震えているように聞こえた。
「島に中学生の女の子がおるじゃろう?」
「ああ……先輩か……」
「あの子が良い例じゃ。きっと彼女は中学を卒業したら、高校に通うためにあの島を出るじゃろう。船に乗って通える範囲の高校があるのか、はたまた一人暮らしをすることになるのかは知らぬが、いずれにせよ同じことじゃ。どのみち彼女はあの島とは無縁の存在となる。他の子供たちも一緒じゃ」
確かに、コンの言う通りだろう。学校も職場もろくにないようなこの島に、未来ある若者が住み続けるとは到底思えない。僕だって、きっといずれは島を出るのだろう。
「けど、じいさんばあさんがまだ結構いるだろ」
「最近はお年寄りもどんどん島を去っていっておる。こんな遠い島で何かあったら困るからという理由で、息子さんや娘さんと都会で一緒に暮らし始めているみたいじゃな。……十年後、恐らくあの島に人はおらぬじゃろう」
コンの声は明らかに涙声だった。つられて僕も涙が出そうになる。
……十年か。
あと十年で、僕は、僕は何をしてあげられるだろうか。
この島の平和を守ってくれた神様のために、僕には何ができるのだろうか。
「……何を……何をすればいい?」
僕の掠れた声での問いに、コンは首を振る。僕の首筋を熱い水滴が伝っていった。
「……何も、何もせんでよいのじゃ。五家宝も貰ってしまった、こんなところに無理やり連れ込んでしまった。こうも我の我儘ばかりでは神としての面目が立たぬ。お主の、ゆーたのその優しさだけで我は満足じゃ」
僕を抱きしめる細い白い腕は震えている。僕はそんな彼女の腕にそっと手を伸ばす。まだ彼女が消えていないことなどわかっているけれど、こうして捕まえていないと、いつの間にかいなくなってしまいそうな気がした。
「……ただ、最後にもう一つ……もう一つだけ、我の我儘をきいてはくれぬかの……? 我がお主をここに連れてきたのは、このお願いのためなのじゃ……」
コンが糸のような声で問うてくる。僕は無言で続きを促す。
「我がここにいたということを、確かにここにいて島を守っていたのだということを。一日でも長く覚えていてくれ。忘れ去られることは、死ぬことよりも、消えることよりも、よっぽど辛い。我がこの世から消えることになっても、お主だけは我のことを忘れないでいてくれ」
僕は、黙って頷いた。
本当は、何諦めてんだよ、とか、まだ消えるって決まったわけじゃない、とか。
コンに言うべき言葉は沢山あったのだろう。
けれど、そんなおためごかしの言葉では何も変えられないことや、僕一人の力では彼女を救うことができないことは、中学生の僕にだってわかった。
そして、彼女のことを忘れずにいることが、僕が彼女に対してできる最大限のことなのだろうということも。
コンは頷いた僕を見て満足したようだった。腕を解いて立ち上がり、僕の前まで下りてきた。
コンの瞳はやっぱり赤くなっていたが、それはきっと僕も同じなので、あえて突っ込むことはしなかった。他人に泣き顔を見られる気恥ずかしさは、神も人間も大差ないだろう。
「……さて、そろそろ本当に帰らねばなるまい。ゆーた、ちょいと目をつぶってくれぬかの?」
「え? あ、ああ。わかった」
「今から、帰還のための儀式をするでの。絶対目を開けるでないぞ」
コンの声には先ほどまでとは打って変わって凄みがある。……え? これマジで目開けちゃマズイ感じ? それともフリ? フリなの? 神様の世界にもダチョウ倶楽部的なネタってあるの?
「あ、そうそう。ちゅーぺっと、ありがとうな。まことに美味かったぞ」
「だから五家宝じゃなくて……ってアレ?」
「これは我からの礼じゃ」
チュッという短い音と共に、頬に柔らかく湿った感触を覚えた。
「……え、あの、え……コンさん……? 今何を……?」
「秘密じゃ」
「今のも帰還に必要な儀式の一部なんでしょうか……?」
「いや? 単純に我がしたかったからしただけじゃぞ?」
そう言ってケラケラと笑うコン。目をつぶっているから表情は見えないが、たぶん今までで一番楽しそうな笑顔だ。
「それではな。ゆーた。また会えると良いの」
コンはすっぱりとそれだけを言うと、僕に別れの言葉を告げる暇すら与えず、パチンと大きく指を鳴らした。
刹那、僕の身体は懐かしい暑さを覚え始めた。サラウンド音声で広がるセミの声と遠くに聞こえる波の音に安らぎを感じ、自然とため息が漏れた。
僕は元の世界に戻ったことを確信し、ゆっくりと目を開いた。鮮烈な緑を放つ藪と、直射日光の鋭さに眩しくなって、すぐに目を細めてしまった。
僕はあのボロボロの鳥居の前で、大の字で寝そべっていた。いつの間にこんな姿勢になったのか、自分でも分からない。
立ちくらみを覚えながらふらふらと立ち上がる。今さっきまでの出来事がまるで夢か幻のような、そんな気がしてくる。……え、まさか本当に熱中症で倒れてたとかじゃないよな……。
僕は不安になって右手に目をやる。そこには確かに、先ほど村上商店で買ったチューペットがあった。僕は急いで中身を確認する。
紫色の五家宝は、ちゃんと一本無くなっていた。
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