慶応二年秋、二つの事件顛末➀


「あれお武家さま、いらっしゃい」

 店主に声をかけられて、やはり覚えられていたか……と、さくらは苦笑いした。

 あの後、ここで飲み食いした先の記憶がない。気づいたら屯所の自室で大の字になって熟睡していた。あとで聞かされた話によれば、店主が駕籠を呼んでくれて、屯所までなんとか帰ってきたのだという。

 今日は近くまで来たこともあり、礼も兼ねてこの店を訪れた。今回は、酒を飲むつもりはない。

「せ、先日は、ご迷惑をおかけしました……」

「なーに、そないなこと気にせんといてください」

 小さくなって言うさくらに、店主は笑顔で答えた。酔いつぶれた客を駕籠に乗せて見送るというのは時々あることらしい。

 さくらは安堵したような、でもやはり情けないような気持ちになって、もう一度苦笑いを浮かべて会釈をすると奥の空席に向かった。が、その時後ろから声をかけられた。

「あれ、島崎先生じゃないすか」

「鍬次郎? なんだ、一人か?」

 なぜこんなところに、と思ったが、鍬次郎たち五番隊の面々は、このあたりで張り込みをしているのだと思い出した。

「そうです。なかなか動きがないもんで、交代で飯でも食いに行こうって話で。島崎先生はなんでまた」

 どうぞ、と鍬次郎が指し示すのでさくらは腰を下ろしつつ、「近くまで来たからな」と適当に答えた。

「一昨日からだったか、張り込みは」

「はい。今日は川の向こう側に三番隊と七番隊がいます」

 鍬次郎たちが就いている任務は、会津からの指示によるものである。三条大橋近辺、あの池田屋からもほど近いところにある高札場を見張れというものだ。

 高札場には、二年前の禁門の変以降、「長州は朝敵であるからして、匿った者も朝敵である」といった内容などが書かれた立札が掲げられていた。ところがこの札を持ち去ったり、墨で塗りつぶしたりといった事案が、(以前からあったものの)近ごろますます増えていた。事実上幕府に対し勝利を収めた長州の人間は勢いづいているのだろう。

 なんにせよ、これは幕府への、そして朝廷への侮辱である。高札場に現れるであろう不逞の輩は、必ず捕まえなければならない。

「こういうのは根競べのようなところもあるからな。新選組の姿を見つけて逃げたきり出てこなくなるかもしれないし。それならそれに越したことはないが」

「でもそうなったら俺たちいつまで張り込めばいいんだって話になりません?」

「それはそうだ。だから根競べというわけだ。お上の命なのだから独断で見張り隊を解散するわけにはいかないし」

 さくらは運ばれてきた膳に手をつけた。朝晩冷えてくる頃合いだから、味噌汁の暖かさが沁みる。

 すると、隣の席から、気になる会話が聞こえてきた。

「なんや最近この辺もまた物騒になってきよったなあ。あそこの高札場の立札、引っこ抜いたりしよる輩がおるらしいやないか」

「あれも結局長州もんの仕業なんか?」

「そないな言い方したらあかんで。今、もしかしたらほんまに長州の天下が来るかもしれんて噂もある」

「そうなんか? なんや信じられへんなあ。せやけど、天下取るんなら立札引っこ抜くなんてみみっちいことするかいな」

「それなんやけど、土佐っぽかもしれへんって話もあるんや。わては近ごろこの辺りで土佐弁をよう聞くようになった」

 さくらは食事の手を止め、鍬次郎を見た。鍬次郎も同じことを考えたようで、真剣な目つきで頷いた。

 二人は無言で食事を掻きこむと、雑に代金を払って店を飛び出した。

「長州なのか、はたまた他の藩なのかただの浪人くずれなのかと思っていたが、考えてみれば土佐の可能性は大きい」

 さくらは走りながら持論を述べた。

「俺も思いました。そうなると、土佐弁のやつらに気をつければ話は早い。原田先生たちにも伝えないと」

「鍬次郎は五番隊の皆にすぐ出られるよう伝えてくれ。私は川向うに直接向かう」

「承知」


 だが、さくらが高札場に近づくと、思わぬ光景が広がっていた。刀がぶつかり合う音、叫び声。

「そっちへ行ったぞ!」

 左之助の声だ。さくらは近づいていった。

「あれ、島崎さんじゃねえか。どうしたんだこんなところで」

「そんなことは今どうでもいい。何が起きている」

「やつらが出たんだよ。鍬次郎たちがまだ来ねえんだ。さっき浅野が伝言しに行ったはずなんだが、すれ違わなかったか?」

 さくらは首を横に振った。とにかく今は加勢がいるというので、さくらはとって返して鍬次郎たちを呼びにいった。

 

 鍬次郎たちは武装を済ませていた。さくらは防具を持っていなかったために後ろからついていって現場に戻った。しかし、戦闘はあらかた終わっていて、さくらたちは捕縛した者たちの検分、連行に追われただけだった。


 この一件はのちに三条制札事件と呼ばれ、新選組にとっては久々の激しい捕り物となった。しかし、見張り・連絡係を務めていた浅野薫による鍬次郎たちへの報告が遅れたこともあり、半分以上を取り逃すという結果に終わった。

 捕まえた男たちは言葉使いから、やはり土佐の者であるということがわかった。土佐の人間というのは、敵味方の見分けが難しい。藩の姿勢としては幕府に敵対的ではないものの、末端の志士ひとりひとりに目をむければ、長州に同調し反幕思想を持つ者も多い。

 今回の一件は、土佐藩と正式に和解ということで決着がついた。新選組の功績は認められ、左之助ら真っ先に斬り込んだ者を筆頭に、恩賞金が出されたほどだ。

 ひとまずはめでたしめでたしといったところだが、幕府の権威がいよいよ落ちてきていることの証左ともなる事件であった。



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