不穏な動き③

「ああ、坂本さん、猫ですろ」

 降りたのは西郷の方だったようだ。中庭の反対側まで下駄をつっかけ、茂みの傍にいた猫を抱き上げた。

 さくらは、西郷が縁側の下を覗き込みませんようにと祈るほかなかった。さくらの方からは、西郷の姿がよく見えた。下から見上げているせいもあるだろうが、その姿は「そびえ立つ」なんて言葉があてはまるようなたたずまいだった。

 ――確かに、でかい。皆が言ってたな。しかし。どうして、長州と……

「なんじゃ。野良猫が迷い込んだんじゃのう」

 坂本がのんびりした調子で言った。

「ここで飼われちょるんじゃなかとな」

「お龍が猫嫌いやき、飼うわけなかぜよ」

「ふむ。そいたら逃がしもんそ」

 西郷は猫を勝手口の方に連れていくと、外に向けて離してやった。

 そろそろずらからないと、まずい。悟ったさくらは、西郷が部屋に戻っていく足音に紛れ、その場を離れた。 


 部屋に戻ると、さくらは今見聞きしたことと、そこから推察されることを帳面に書きつけていった。坂本が口にしていたお龍とは先ほどの女中のことだろうが、客と女中という関係にしては親しそうな口ぶりだ。坂本がこの寺田屋に泊まるのは一度や二度ではないのかもしれない。もしくは、長期に渡って逗留しているとみてよいだろう。もし直接は聞けなくても、女中や女将から何か聞けるかもしれない。一度巡察隊を向かわせてみようか。

 本当はすぐにでも寺田屋を出て屯所へ報告に行きたいところだったが、「泊まる」と言っておきながら「やはり辞めます」と言うのは、目立ってしまう。さくらは宿泊客として、夕餉を食し風呂に入った。

 風呂から自室に戻ろうとしたところ、声が聞こえてきた。

「龍馬はん、お風呂まだ前のお客はんが使てるさかい、もう少し待っとってくれやす」

「おお、そやったがか。ほんならお龍の部屋で待たせてもらおうかのう」

「なんでそうなるん。準備できたら呼びにいくさかい」

 坂本の顔を確かめておかねばと思っていたから、これは好機だ。二人の親し気な会話を聞きつつ、さくらは堂々と坂本の前を通りすがることにした。風呂上がりなので、手ぬぐいで手元を隠しても不自然ではない。以前、桂小五郎にまみえた時、手を怪しまれた。普通の女子の手にはない無数のタコや傷。そこを突かれた。二の舞は演じるまいと思った。

「あの、お風呂どうぞ使てください」

 さくらは、二人に近づくと思い切って声をかけた。

「おおっ、ちょうどよかったがぜよ」

「いいお湯でしたわあ。明日にはお暇すんのが惜しいくらい」

「おまさん、わかっとるのお。また泊まりに来たらええ。儂もここは居心地がようて、なんべんも来とるんじゃき」

 坂本は、警戒心がないのか、ただのおしゃべり好きなのか、両方なのか。さくらが自然に質問するのにちょうどいい状況をしつらえてくれた。

「あんさん、土佐のお方どすか?」

「おおっ、ほうじゃ。ようわかったきのう」

「うちの知り合いに土佐の出の方がいてるんどす。そん人にようしゃべり方が似とって。それにしても、なんべんも京に来とるやなんて大変なこっちゃですなあ」

「いっつも土佐から来ゆうわけやないぜよ。儂は脱藩したからのう」

「まあ! ほな脱藩して何してはるんどすか? ……って、すんまへん、いきなり不躾どしたな」

 さくらはしおらしく謝って見せた。とは言え、むろん「何してはるんどすか?」は本気で知りたいと思っている。だが坂本もさすがにそこは言葉を濁した。

「そいはまあ、いろいろじゃき。こがいなところでする話でもにゃあ、そのうちゆっくりのう」

「へえ。またどこかでお会いできたらよろしおすな。うち、大坂と京から出たことあらへんさかい、土佐のお話聞いてみたいわあ」

「ほうかほうか。お姉さん、名前なんて言うんじゃき」

喜美きみといいます。あんさんは?」

「お喜美さんじゃな! 儂は才谷屋梅太郎じゃ。ほいたら、儂は風呂にするぜよ」

「へえ、おやすみなさい」

 坂本はニコニコと笑って去っていった。まさか目の前の女が新選組の密偵であることも、自らが名乗った名が偽名だとあっさりバレていることも、わかっていないだろう。

 さくらは、残された龍に「ほなうちはこれで」と告げてその場を立ち去った。

 土佐の脱藩浪士、坂本龍馬。明日、屯所に戻ったらすぐに勇と歳三に報告せねば。その、さくらはなかなか寝付けなかった。

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