二・進入(Penetration)

 清潔感のある室内だった。

 しかし、風呂の娯楽施設だという《湯浴み処》にしては殺風景な印象だ。通された食事室は広い部屋で、大きなテーブルと数脚の椅子があった。カウンターの奥のキッチンから、老婆の声がする。

「適当に座っておくれ! ……何もないだろう? もとは診療所だったんだよ。アタシの亭主が医者だった。ならず者どもがドンパチやってはよく来たもんだ」

 医者と聞いて安心した。目的の建物だ。しかし、この老婆が本当のことを言っているとも限らない。

「医者の妻……。貴女はナースなの?」

「いいや、ずぶの素人さ。だからって、医者の隣に立つ者が黙ってみてるわけにいかない。それで弾丸の摘出や傷の縫合ぐらいはできるようになったのさ。ま、今じゃあ老眼で針に糸も通せないがね。……アンタ、ツキミソウのお茶は飲めるかい」

 わたしはツキミソウを知らなかった。でも、彼女には終始敵性を感じなかったし、ここでは彼女の流儀に合わせるべきだと思えた。

「はい、いただきます」

 キッチンへ消えた彼女が、鉄の板にカップをふたつ載せて戻ってきた。そのひとつをわたしの前へ、もうひとつをその隣の席へ置き、彼女はその席に座った。

 ツキミソウのお茶は、綺麗な青色のお茶に、微かな金色の光を放つ塊をうかべるものであるらしかった。

「綺麗……この塊は?」

「月さ。飴のように甘い、小さな月だよ」

「月……」

 わたしには、それが冗談なのか本気なのかわからなかったけれど、おそらく地上にしかない何かなのだろうと思った。

「このお茶は亭主が好きだった。死んで今年で二十年、診療所が《湯浴み処》に変わって十八年よ。

 ……さて、そろそろお前さんの話を聞こうかね。何をしにここへ来た?」

 わたしは、カップを手に取って青いお茶の匂いを嗅いだ。老婆を心から信じたわけではないが、お茶は爽やかで甘い匂いがした。

「ヒトを探しているんです」

「ふむ」

「ロイ=ラナークという男のヒトを知りませんか」

「男のヒトねぇ」

 老婆は思い出そうとするように、視線を左右へ何度か振った。

「さっきも言ったがね、ヒトが各政府の管理を逃れてここまでたどり着くのは難しいんだよ」

「貴女だってヒトでしょう?」

「フフ、それはどうだろうね。まあ、そんなわけだから名前や出自なんて適当に名乗ってる、当てにならんね。どんな仕事を……」

 ジリリリ、エントランスのベルが鳴る。

「ああ、ちょっと待ってておくれ。誰か来た」

 よいしょ、と立ち上がり、部屋を出ていく。


 わたしはカップのお茶をひとくち飲んだ。匂いに間違いはなかった、味も甘くて爽やかだ。ただ、月が邪魔をして飲みにくい。

 老婆のしゃべり方に誰かを思い出した。記憶の顔を次々にめくる。

 ——そうだ、基地の寮母さんに似てるんだわ


 わたしたちは海の只中に作られた基地で、手厚く養成されていた。手厚く…… 少なくとも、わたしはそう信じている。寮母さんをはじめ、わたしたちに関わるヒトは、みな優しかった。中でも寮母さんは、話し方はぶっきらぼうだけれど、わたしたちに対して、ヒトと同じように接してくれた。

 

 記憶の顔にかぶるように、老婆は戻ってきた。そして再びよいしょと声を出して腰掛ける。

「……済まないね、この時間は八百屋やら酒屋やらが来るんだよ。みんな、亭主とアタシが世話して命拾いした奴らさ。亭主がいない今も、サービスだと言ってはいろいろ持ってきてくれるんだ。——さてと、話を戻そうか」

わたしは頷いた。

「ロイは《リライ軍》の幹部で、わたしの……教官、でした」

「アンタやっぱり軍関係じゃないか。アタシの目利きもまだ衰えちゃいないね!」

 ハッ、とまた息を吐いた。今度は、笑っているのだとわかった。

「《リライ軍》。遺伝子操作で造ったキメラの軍隊だ」

「はい、わたしもリライです。《マルメイダス》、って知ってるかしら?」

 わたしはワンピースのボタンをふたつ外し、左の鎖骨の下にあるヒダを開いて見せた。紅くぬらぬらした粘膜と、櫛のような形をした鰓を、老婆はしげしげと眺めた。

「ああ、これが鰓か、初めて見た。……知ってるよ、水中工作の最終兵器人魚だろ」

 わたしは頷く。

 

 〔イルカの数万倍の超音波で索敵し、電気ウナギの放電でドロイド軍を機能停止に至らすリライ最終兵士〕

 そんな仰々しい触れ込みで、わたしたちは生まれたらしい。

 世界を二分した長い戦争。遺伝情報の操作により生まれ、偽の記憶、偽の本能、偽の憎しみをエネルギーにして、対ロボット兵士として仕立て上げられた命、それがわたしたち《リライ兵士》……。

 

『本日から君達を訓練する、ロイ=ラナークだ。任務遂行に必要なミッションを覚えてもらう。余計な時間は無い。始めるぞ』

 

 わたしは胸のペンダントにそっと手をやる。

「でもあの計画は、戦争が終わるまでに間に合わなかったと聞いたが……」

「はい、わたしは実戦を知りません」

 ボタンをかけながら、自分が老婆を慕っていることに気づく。色黒で皺の多い顔に埋もれているが、目は優しい。そしてその目が柱の時計を捉えると、はっと見開いた。

「ああ! もう開店の支度を始めなくては。たんまりある野菜と酒を運ぶんだ、お客なのに悪いけど手伝ってくれないかね」

 わたしは頷いた。廊下へ出て、床に置いてあった麻袋を持ち上げる。

「おや、見た目によらず力持ちだ。アンタ、名前は?」

 わたしは少し考えた。番号で呼ばれるのは、もう終わりにしたかった。

「……Merak」

「ん? なんて?」

「メラク。わたしの名前は、メラクです」

「そうかい。アタシのことは皆グランマと呼んでるよ。じゃあメラク、その袋はこっちだ」

 少し曲がった腰を撫でながら先を行くグランマの後を、わたしはついていった。

 

 

 * * *

 

 

 わたしが

「ここにいても良い?」

 と訊ねて、グランマが

「問題ない」

 と応えた。

 だからここに住むことにした。

 

 《湯浴み処》に来るほとんどの客は、クロスデルタに住む、グランマの知り合いだった。わたしのことをグランマは、新しい《湯女》だと紹介した。

 《湯女》というのは、湯浴みをする客の体を洗う任務を行うのだそうだ。白く薄い湯浴み着を着て、泡をつけた海綿で、客の体を洗う。わたしはこの任務が気に入った。

 ここでの任務には《報酬》がつくということも、初めて知った。

「《報酬》?」

「アンタの任務に満足した客がくれる金貨のことさ。もらった金貨はアタシとアンタで分ける。アタシはその金貨でアンタに食事を作り、部屋を貸してやる。アンタは自分の分で欲しいものを買うといい。洋服や、部屋に必要なものは自分で買うんだよ。どうだい?」

「了解(イエスマム)」


 いろいろなリライの客がいる。竜人種、狼人種、猿人種、熊人種……。

 鱗は丁寧に磨くと光る。毛は水分を拭き取ったあとドライヤーで乾かすとフワフワになる。

 でも、それだけでは物足りない客がいて、わたしの身体に触れる。彼らには、『柔らかいものに触れたい欲求がある』のだそうだ。

 触れられることに最初は驚いて、わたしもつい電気を走らせたりしてしまったけれど、そこに敵性が無いことはすぐわかった。触れさせると、《報酬》が多い。それはつまり、任務が成功した、ということだ。だから、触れたいという要求にはたいてい応じるし、触れてほしいという要求にも応じる。

 その《追加任務》を知った客の中にはわたしのことを《娼婦》と呼ぶ者もいて、そこには少なからず敵性に近いなにかを感じる。しかし、そんな客でも湯浴みを終えると敵性は消えていて、やはり《報酬》は多い。


「そうかい、面白いか、だったら良かったよ」

 わたしはグランマの手伝いをしながら、相変わらずロイを探していた。

「クロスデルタ生まれのヒトねぇ。アタシは戦争が終わる前からここにいるが、アタシら以外にヒトなんて一人もいなかったはずだがね」

「ロイは言ってた、戦争が終わったら故郷へ帰りたい、って。その時に聞いたのよ、灯台に近い病院のこと」

「終戦と同時にヒトは皆、《リライ軍》か《ドロイド軍》に【保護】されたんだよ。それからは、争いで絶滅することがないように、どちらかの管理下に置かれてる」


 グランマや客の話を総合すると、ここ《クロスデルタ》という街は、二つの軍が管理する地域の狭間にあって、どちらも手を出しかねる無法地帯なのだそうだ。

 二つの軍のどちらにも属せない、属したくない者たち——住人は自らを『はぐれ者』と呼んで馬鹿にしたように笑う——は、一度大規模な暴動を起こしてこの街に立てこもった。

『はぐれ者』は技術に長けていたり、専門知識に富んでいたりする場合が多い。自分たちの軍に管理され、その能力を消費されることに嫌気がさした彼らは、種や軍属を問わず、自由を求めてこの街を死守した。それが、大戦後の《クロスデルタ》の始まりだったのだ。

 

「アンタはどうして、そいつに会いにわざわざ海からきたんだね……?」

 自分にもわからなかった。

 会って何を伝えたいのか、何をしたいのか。

 グランマのその質問にはいつも、答えることができなくて、わたしは虹色のペンダントを握りしめるだけだった。

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