うたを忘却れたかなりやは
燐果
一・上陸(Landing)
見下ろせば深い闇。見上げても、かすかに色の違う闇がゆらゆらと揺れている。長い旅が終わろうとしていた。わたしは二度、三度、身体を波打たせて浮上する。近づいた水面に、いくつかの白い光が不規則な線を描いた。すこしだけ名残惜しく思いながら、わたしはゆっくりと水面へ顔を出した。
——まだ暗い、敵性存在……無し。
メタモルフォーゼが終わっていない下半身は、フィンと呼ぶ尾ヒレから二本の脚への変容中だったけれど、それも十を数えるうちに終わった。
——服を着よう。
ごつごつとした磯へ這い上がり、背負ってきた防水性のバックパックを下ろした。すっかり伸びてしまった髪から、ぽたぽたと水が垂れる。
久しぶりの陸地。三時の方向に見える突き出た崖に、小さな灯台。正面には乾いた土の道。上り坂の先に、レンガの建物がいくつか見えた。
話に聞いていた《クロスデルタ》という街は、この先で間違いないようだった。わたしはバックパックから大きなタオルを出し、上半身の水分を拭った。それから、自由に動かしやすい——それは陸地だけに適応した、という意味の——《足》で不格好な岩の上に立ち、下半身の水分も拭った。
ここに来るためにわたしは、海上基地の廃墟で上陸の訓練をした。足の感覚を思い出すために何度もメタモルフォーゼしたり、声を出して会話のシミュレーションをしたり。もう不自由なく歩けるようにはなっているけれど、それでもこうして足を眺めてみると違和感がある。《はぐれ人魚》になって十年も水中にいたんだから当然だ。
基地の職員ロッカーを漁って持ってきた誰かの私物、短い袖の黒いワンピースに腕を通し、前面のボタンを止める。それから、これも誰かの私物である茶色い編み上げ靴を履いて岩の上に立つ。最後にひとつ、お守りのペンダントを首から下げる。貝殻に小さな花が彫刻されたそれは、《彼》が作ったものだ。
わたしは顔を上げた。
海は凪いでいる。遠くに、大型輸送船が一隻見えた。
——上陸、したんだ……
水平線に、朝日が顔を覗かせている。海を渡って、わたしのところまで届く朝の光。胸のペンダントに刻まれた花が、虹色に光っていた。
* * *
時おり乾いた風が吹く。それはどんなに弱くても、黄色い砂埃を舞い上げるらしい。わたしの周りをくるりと回って、黒いワンピースの裾を踊らせる。わたしはまだ濡れたままの長い髪を束ねようとして、リボンをナップザックの奥深くにしまったことを思い出した。黒い髪に黒い服、これじゃ興奮したイカみたい。少し可笑しくなって笑い、そして小さく息をついた。
辺りを見渡す。
砂埃と同じ色の、黄色いレンガの建物が並んでいる。どの建物も窓が小さく、平べったい作りだけれど、基地にもあった空調の室外機が見えたり見えなかったりするのは、新しいものと古いものが混在しているからだろう。
建物の前には、小さなトラックもあれば、馬車もある。
ガス灯が朝日の中でその光を失いつつあった。いくつかのネオン看板は、ジジ、と音を立ててまだ存在を主張している。
そんな、さまざまな時代が混ざったような街は研究所の映画でも見たことがなかったから、わたしは興味深く眺めた。
思ったよりも静かだった。朝だからかもしれない。出歩く人はまばらで、その誰もが、一度はわたしに鋭い視線を投げた。驚くのは、そのまばらに見かける人の中に、アンドロイドらしき姿が見えることだ。
——本当に我が《リライ軍》は、《ドロイド軍》と協定を結んだんだ……
ハサミが描かれた看板の前に、燃料缶と板とで作られた簡易テーブルセットがある。そこへ並んで腰掛けながら酒らしきものを煽っている二人——ひとりはヒトと狼のキメラ、もうひとりはアンドロイドだろう。どちらも、敵性に似た何かを感じる——は、じろじろとわたしを眺め、ニヤニヤと下卑た笑いを隠しもせず、お互いに耳打ちをして、笑い声を上げた。
「女か?」
「若い女だ、珍しい」
「一人か?」
「一人のはずはない」
「胸が平らだ」
「穴がひとつなら男、ふたつなら…」
「ふたつなら?」
「女だ」
聞こえないと思って大笑いしている。わたしのことをヒトの女だと思っているのだ。たしかに、わたしがヒトなら聞こえなかっただろうし、若くも見えるだろう。まったく、どうみても質が悪い。
わたしの武器である《握手》をしてやろうかとも思った。しかし、まだ何も見つけていないのに、殺してしまって騒ぎになるのも厄介だ。
そしらぬ顔で通り過ぎる。
* * *
【一五番街】を見つけた。灯台にほど近い、街外れの地区になる、その中でもさらに端にあるのが、目的の建物のはずだった。
二階建てのレンガ造、同じくレンガで四角く短い煙突が飛び出ている。周りの建物に比べれば、建物も敷地も広い。看板は見当たらないが、おそらくここで間違いないはずだ。
庇の下の両開きドアには、「準備中」と書かれた札が下がっている。わたしは呼び鈴に目を止め、それを鳴らした。しばらく待ったが、応答はない。もう一度鳴らした。物音もしない。誰もいないようだ。
出直そう、と振り返ると、少し離れた間合いで誰かが立っていた。頭からかぶっていたマントを外した顔は、老婆だった。
彼女はアンドロイドではなさそうだったが、鋭い目で、わたしをスキャンするように頭からつま先まで見た。
「なんだい、お前さんは。……軍の関係者だね、あんまり見ない《種》のようだが。まさかヒトじゃなかろう?」
「なぜ、ヒトではないと」
老婆は、ハッ、と息を吐き出した。笑っているのか、溜息なのか、わからなかった。
「こんな辺境の無法の町に、ヒトがたどり着くのは難しいからさ。ヒトが弱い生き物だということだ、絶滅を防ぐために管理保護されているぐらいね」
管理保護? ヒトが? わたしは突然のことに動揺して、少しの間次の言葉が見つからなかった。
「……嘘でしょう」
「嘘じゃない。アンタは嘘だと思いたいのかもしれないが」
老婆がちらと目を遣る先で、近隣の店主たちがこちらの様子をうかがっている。
「……中で話そうかい。鞄を開けるが鍵を出すためだ、アタシを撃つんじゃないよ」
物騒な街に暮らす者の言い方をしながらわたしの横を抜けて、ゆっくりとエントランスの前に立った。何気なくその上を見ると、さっきは気づかなかったが、雑にあつらえたような古い看板が掛かっていた。
「《湯浴み処》……?」
「ああそうだ。知らずに来たのかね?」
怪訝な顔で振り返った老婆に、わたしはうまく返事ができないまま、頷いた。
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