第4話 勝気なカノジョが弁当を作ってくれた

 僕は気持ちを落ち着けようと教室へ戻る前にお手洗いに行った。鏡に映る顔は真っ赤になっている。

 しかし、どうしてあんなことになったんだろう。いまだによく分からない。

 石野さんにうまく言いくるめられたような気がする。今でも石野さんの理屈がどこがおかしいのかが分からない。絶対おかしいんだが。それにしても困ったことになった。

 女子と付き合ったことなど一度もない僕はこれからどうすればいいのかよく分からない。

 まあ、石野さんが図書委員の仕事をちゃんとしてくれればいいわけで、何も真剣に付き合うわけじゃないんだから別にいいか。石野さんにしても単なる気まぐれで付き合う気になっただけだからすぐに僕のことに飽きるだろう。

 ただ、石野さんと付き合うことについて、何か重大な問題があったような気がするのだが、それが何だったかまったく思い出せない。

 まあなんとかなるさと思いながら教室に戻ると、教室の中の空気が何か変だ。気のせいかもしれないがみんなの僕を見る目が冷たいような。

 紀夫が僕の方を心配そうに見た。

「お前、石野に告ったのか?」

 もう知っているのか。

 そういえば、噂話がおばさんたちの間でどれぐらいのスピードで広まるか調べる小学生たちのことを書いた小説を読んだことがあるが、たしか、音速に近い速さだったような記憶がある。

「成り行きでそうなった」

 正確には『告らされた』だが。

「土下座までして頼んだってな。お前が石野のことをそんなに好きだったとは知らなかった」

 土下座? なんでそんな話になっているんだ。

「そんなことするわけないだろう。それに石野さんのことは好きじゃないよ」

 噂は伝わるのは早いが、必ずしも正確に伝わるとは限らない。

「じゃあ、どうして石野に告ったりしたんだ?」

「色々事情があるんだよ」

 僕自身がどうしてこうなったのかよく分からないのに紀夫に説明することはなかなか難しい。

「だけどお前、女子には嫌われるぞ。石野は女子受け悪いからな」

 たしかにクラスの女子たちの視線がおかしい。

「澤田君がまさか石野さんと……」

「澤田君もやっぱり顔なのね」

「澤田君がそんな人だとは思わなかったわ」

 女子のヒソヒソ声が聞こえてくる。『そんな人』って。ほとんど女子と話をしたことがないんだけど、僕のことを一体どう思っていたというんだろうか。そっちの方が気になる。

 女子の声に混じって男子の声も聞こえてくる。

「澤田が石野と……全然釣り合わないじゃないか」

 言われなくても分かっているよ。

「でも、澤田は免疫がないから石野に潰されるぞ。ぐちゃぐちゃにされて捨てられるぞ」

 そんなこと言わないでくれよ。泣きそうになる。

「でも、なんで澤田なんだ。もう石野はなんでもいいのか」

「いや、石野にとっては澤田は物珍しかったんじゃないか? きっとすぐに飽きるよ」

 僕は珍獣か。

「澤田、可哀想だな」

 みんな口々に勝手なことを言っている。

「ハアー」

 僕は溜息をついた。

「しかし、冗談抜きで石野は大変だぞ。陸上部の俺の友達の知り合いがカノジョと別れて、石野と付き合ったら、振り回されて、振られたって言ってたぜ。考え直せ。今ならまだ間に合う」

「忠告ありがとう。よく考えるよ」

 僕は力なく笑った。

 午後からは女子たちの痛いほどの刺す視線を受けて、居心地悪く過ごした。

 やっと放課後になり、この状況から解放されるかと思うとホッとする。

「これから大変だな。俺はあまり力になれないと思うが、まあ頑張れよ」

 紀夫はなんとも暖かい励ましの言葉を言って、教室を出て行った。僕は女子たちの冷ややかな視線を浴びながら教室を出て、図書室に向かった。

 これだけの目にあっているのに、もし、石野さんが当番にきていなかったら、ショックで死んでしまうかもしれない。そうなったら、化けて出てやる。

 祈るような思いで図書室を覗くと、石野さんはちゃんといた。カウンターに座って当番をやっている。なんとか役目は果たせた。いい加減そうに見えるが、約束はちゃんと守るみたいだ。しばらく見ていたが、特に問題がなさそうなので、石野さんには声をかけずにそのまま帰った。


 家に帰り、夕食を食べ、風呂も入ってそろそろ寝ようかと思って、スマホを見ると10件近くの不在通知が入っている。見覚えがないそれも全部同じ電話番号だ。

 イタズラ電話か? それとも今流行りの詐欺かなんかの電話か。

 家の中ではスマホを自分の部屋の中に置きっ放しにしているので、電話がかかってきてもまったく気がつかなかった。犯罪に巻き込まれてはいけないので、基本的には知らない番号にはかけ直さないようにしている。今度もかけ直す気はない。

 さらにメールも来ていたので、メールを開くと石野さんからだった。メールには石野さんのメールアドレスと電話番号が書いてある。

 その番号と不在通知の番号とを見比べると同じ番号だ。電話は石野さんからだった。

 当番で何かあったのだろうか? もう当番をしないとか言うんじゃないだろうな。不安な思いで石野さんに電話した。

「もしもし」

 石野さんの低い声がした。

「電話もらったみたいだけど……」

「メール届いた?」

「うん。届いている」

「届いたら届いたって電話をくれるか、メールを送ってくれるのが当たり前じゃないの」

 途端に不機嫌な声になった。

「ごめん。スマホを部屋に置いていたから、気づかなかったんだ」

「連絡がないから、隆司が書き間違えて、違う人にメールを送ったり、電話をかけたりしたんじゃないかと思って心配になったじゃない」

 自分が送り間違えたり、かけ間違えたりしたという可能性は考えないわけね。

 それに隆司って名前呼び捨て? どうして僕の名前を知ってるんだ。

「ごめん」

「それから、どうして今日、先に帰るの? わたしは隆司のカノジョだよね? 普通はカノジョが当番終わるまで待って一緒に帰ろうとか思うでしょう?」

 そういえば紀夫も引退しているのにカノジョと一緒に帰るためにクラブに顔を出したりしているな。

「ごめん。女の子と付き合ったことがなかったから、そういうこと分からなかったんだ」

 ハアーと溜息が聞こえた。

「付き合ったことがなくてもそれぐらいちょっと考えれば分かるでしょ。わたし、ずっと隆司が来るのを待ってたんだよ」

「ごめん。石野さんが嫌がらせで付き合うって言ってたから。そこまで深く考えてなかった」

「嫌がらせだろうが、なんだろうが、カノジョであることには間違いないんでしょう」

「そうだね」

「明日からは一緒に帰るからね」

「うん。分かったよ。ごめんね。石野さん」

「それから、石野さんはやめて。付き合ってるんだから樹里でいいよ」

「ええーっ、でも……」

 名前を呼び捨てなんて殴られそうで怖い。

「いいから、呼んで。隆司」

「じゅ、樹里……さん」

「『さん』はいらない。もう一回言って」

 なんか厳しい。これは嫌がらせの一環かな。

「樹里」

「それでいいわ。隆司はお昼はどうしてるの?」

「食堂で食べてるよ」

 入学の時に、紀夫がうちの高校の食堂はボリュームがあって、味も良くて人気があるから、昼は食堂で食べないかと言われた。母さんは弁当を作りたそうだったが、父さんが友達づきあいも大切だと言って、母さんを説得してくれた。

「そうなんだ」

 なんで、石野さんはそんなことを聞くんだろう。

「じゃあ、おやすみ。隆司」

「おやすみ。樹里」

 電話が切れた。

 大丈夫かな? 呼び捨てなんかにして明日、殴られないかな。石野さん怖そうだし。

 明日が怖い。


 僕はまた悪夢を見た。

 石野さんがダイアモンドや高級車を僕にさんざん貢がせたあげく冷たい目で見つめて、

「隆司といてもつまらないから、今日からこの人と付き合うことにしたわ。バイバイ」

 と、手を振って背の高いイケメンと腕を組んで歩き去っていく。

 僕は呆然と2人の背中を眺めて佇んでいた。

 そこで目が覚めた。今のは正夢か。僕は自分の将来を見たのだろうか。

 下手に石野さんには深入りせず、サッサっと別れられる方法を考えよう。

 学校に着いて、教室に入ると痛いような視線が一斉に突き刺さってくる。

「みんなの目が怖い」

 席に座ると、僕はボソッと呟いた。

「石野にカレシを取られた奴がこのクラスにもいるからな」

 紀夫が肩を竦めた。

 午前中の授業が終わり昼休みになったので、食堂に行こうかと思い立ち上がると、教室にいるクラスメイトの視線が後ろのドアに釘付けになっていた。

「どうした」

 紀夫に聞くと、無言で後ろのドアを顎で指した。

 指された方向を見ると、石野さんが小さなカバンを持って、こちらに向かって歩いてくる。

「お弁当作ってきたから一緒に食べよう、隆司の分も作ってきたから」

 石野さんが僕に向かって微笑んだ。まさか石野さんがお弁当を作ってきてくれるとは思ってもいなかった。どうしていいか分からず、固まったまま動けない。

「何してるのよ。早くしなさいよ。行くわよ」

 石野さんは僕の手を取ると、引っ張って歩き出す。

 クラスメイトたちが驚きの目で見ているなか、僕は引っ張られるがままに歩いていった。

「早く行かないと取られちゃうわ。サッサっと歩きなさいよ」

「どこ行くの?」

「いいから」

 石野さんはテニスコートの方へ僕を連れていく。

 テニスコートの金網の外にはいくつかベンチがあり、昼休みにはカップルがそこで昼ごはんを食べている。

 カノジョがいなかった僕は昼休みにここへは行ったことがないので噂でしか知らなかった。

 実際、来てみると、まだ昼休みが始まったばかりだというのにベンチはほとんどカップルで埋まっていて一つしか空いていない。僕をその空いていたベンチに座らせると、石野さんはベンチの前に立ったままなかなか座らない。

「何してるの? 普通女性がベンチに座ろうとしてたら直接座らすようなことはしないでしょう。ハンカチぐらい敷いてくれたらどうなの」

 あっ、そうか。テレビやドラマでそういうことしていたのを見たことがある。

 僕は慌ててハンカチを出して、敷くと石野さんはその上に悠然と座った。

「はい。これ、隆司のお弁当」

 石野さんが可愛い花柄のついたお弁当箱を差し出す。

「ありがとう」

 僕は受け取ると、お弁当箱を開いた。

 中はチキンライスとハンバーグ、スクランブルエッグ、きゅうりやレタス、トマトが入ったサラダ、リンゴなどが彩りも考えて綺麗に盛り付けられている。

 僕はさっそく食べようと思ったが、弁当箱と箸を持ったままじっと考えた。

 昨日、石野さんは嫌がらせで付き合うと言った。

 ひょっとして一見美味しそうに見えるが、実はすごく辛かったり、とてつもなく不味かったりするのではないだろうか。あるいは何か入っているとか。

「何も入れてないわよ」

 じっと中を見つめている僕に気づいて、石野さんが言った。

「そう?」

「そんな分かりにくい嫌がらせはしないわ。大丈夫よ」

 石野さんはパクパク食べ始めた。

「いただきます」

 僕もつられて食べてみる。

「美味しい」

 母さんの料理も美味しいが石野さんのお弁当も負けないぐらい美味しい。

「そう、よかったわ。口に合ったみたいで」

 石野さんはニコリともせずに言った。

「全部美味しいんだけど、このチキンライスが特に美味しい。すごいよ」

「当たり前でしょう。わたしが作ったんだから」

 す、すごい自信だね。

「石野さんが……」

「石野さん? 今度そう呼んだらグーパンチ」

 石野さんが眉間に皺を寄せて睨んでくる。体が大きいから殴られたら痛そうだ。

「……い、じゃない。じゅ、樹里がこんなに料理が上手なんて知らなかった。誰に習ったの?」

 僕は顔を青ざめながら言った。

「ママよ。ママは料理上手なの」

「そうなんだ。このお弁当もお母さんと一緒に作ったの?」

「違うわよ。私が一人で作ったって言っているじゃない。今、一人暮らしなんだから」

「へえ、樹里って一人暮らしなんだ」

「そうよ。ちょっとワケがあってね。家族とは別に暮らしているの」

「そうなんだ……だからか」

「何よ。だからって」

「誰も起こしてくれないからよく遅刻するんだ。でも、遅刻はよくないよ」

 僕が初めて遅刻した時、生活指導の先生が『石野。またお前か』と言っていたからよほど遅刻が多いんだと思った。

「それもあるけど、低血圧なの。だから、朝はなかなか起きれないの」

「低血圧?」

「信じられないっていう顔ね。何も低血圧になるのはか弱いお嬢様だけじゃあないわよ」

 樹里は不満そうな顔をすると、急にニヤッと笑った。

 何かよくないことを考えついた人がする顔だ。嫌な予感がする。

「朝、起きるのは早いの?」

「うん。5時には起きてるよ」

「5時? そんなに早く起きて何してるの?」

「勉強だよ」

 僕はどうやら朝型らしく朝の方が勉強していてもよく頭に入る。だから、朝早く起きて勉強することにしている。

「だったら6時に私に電話して。私が出るまで鳴らし続けてね」

「えー、どうして? 目覚ましかけていたら大丈夫じゃないの?」

「目覚ましで起きられたら、遅刻なんかしないわよ。カレシのモーニングコールで起こされたら、起きれるんじゃないかと思って。それぐらいいいでしょう。電話するぐらい、そんなに時間はかからないでしょう。カノジョがこんなに頼んでるんだから」

「分かった」

 樹里がしつこく言うので、仕方なく頷いた。電話するぐらいそんなに手間ではない。

「それから朝迎えに来て。そうしたら、絶対に遅刻しないと思うから。遅刻は悪いことなんでしょう。カノジョが悪いことをしないようにするのもカレシの役目だよね」

 樹里は理不尽なことを言う。迎えに行って待たされたりしたら、僕まで遅刻してしまうかもしれない。これまでより早く家を出ないといけなくなる。これはすごい嫌がらせだ。

「樹里の家って、チイちゃんと同じマンションだよね。あの時、僕に声をかけてきたのは樹里だよね」

「そうよ。部屋番号は帰りに教えるわ。今日のお弁当はモーニングコールと迎えにきてくれるお礼の前払いということで、これからも作ってあげるから」

 樹里がニヤッとした。僕はお弁当を全部食べてしまっていた。前払いを全部食べてしまったんだから今さら断れないだろう。

「樹里の家はお金持ちなんだね」

「どうして?」

「あのマンションは家賃がすごい高いって母さんが言ってたんだ」

「パパが無理して借りたの。娘のことが心配で無理しているだけよ」

 無理しても出すことができるんだからやっぱり金持ちだろう。

「それよりちゃんと明日から迎えに来てよ」

「うん。分かったよ」

 このお弁当は高くついたなあと思いながら教室に戻ると、紀夫が変な顔で僕を見る。

「お前、石野の弱みでも握っているのか?」

「握ってないよ」

「石野は今までいろんな男と噂があったが、1度たりとも男に弁当を作ってきたことはない」

「たまたまじゃないの」

 樹里は気まぐれだから付き合っていた時、たまたま弁当を作りたくなかったとか。

「違う。俺はいろいろな奴から聞いているが、石野に奢らされたという奴はいるが、石野に何かしてもらったという奴は聞いたことがない。石野は本気なのかも」

「お前、冗談はやめろ。樹里は嫌がらせで付き合うってはっきり言ったんだからな」

 そう。あくまでも僕に対する嫌がらせ。それが証拠に家まで迎えに来いとまで言われた。

「隆司。いま、石野を名前で呼んだか?」

「うん。名字で呼んだらグーパンチって言われたからな」

 紀夫の目がまん丸になる。

「よかったかどうかは分からんが、お前にもやっと春が来たな」

 紀夫は一人で何度も納得したように頷いていた。変な奴だ。

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