第5話

 智樹がお盆に集まろうという連絡をしてきた当初、私はあまり乗り気ではなかった。それは、感染症のことを警戒している、という理由だけではなかった。私の脳裏に、ある不安が広がっていたのだ。それは、以前のクラスメイトが知っているような私はもういない、という自己同一性の欠如からくるものであった。

 その時の私は、四ヶ月の間に肝臓と肺と血管をぼろぼろにし、体重と一緒に筋肉を落とした、ぎりぎりかつての私の面影を残した別の誰かだった。もし、クラスメイトの一人でも私の観察日記をつけており、連続的に変化する私の様子を書き留めていたのなら、そいつが私を私であると証明してくれただろう。しかし、生憎そんなストーカー気質な友人はいなかったし、いたとしても内面的な変化までは詳細に記述することはできなかったであろう。今の私は、学生という身分の容器のなかで、やっと形を保っているゼリーのようだった。それでも最終的に参加を決定したのは、お決まりの、「お前が来なきゃ誰が来るんだよ」というみんなからの推薦、そして北川が来るという出席表を見たからであった。

 北川は、こういった集まりを誰よりも避ける人だと思っていた。それは勿論、感染症やそれに付随するリスクを正しく認識し得る人である、ということもあるし、彼女の性質上、クラスの付き合いに顔を出すというのは考えられなかった。それでも、クラスの半分以上が参加を見送るなかで、彼女は参加する意向を示した。私は、今の陰鬱とした自分を顧みて、彼女と再会すればなにかが変わるかもしれない、そんな、霧のような希望を抱いていた。

 そして、誰かに今の自分の姿を見せる。これは予想以上に効果があった。集まる日が近づくにつれ、やはり行きたくないという憂鬱な気分は高まっていったが、それがその分、どうにかしてできるだけ高校卒業時の姿に戻そう、という努力につながった。むろん、一週間程度でできることなどたかが知れている。それでも私は、せめてその期間だけでも、と思いお酒と煙草の量を減らした。どんなに眠くても午前中に起きるように目覚ましをかけ、昼はそのまま学食で健康的な食事をするようにした。ついでに生協の書店コーナーに行きパラパラと流行している本をめくり、帰りは遠回りをして散歩をしながらアパートに戻った。夜は歯磨きとシャワーを欠かさず浴びるようにして、寝る前の一服も我慢した。それだけで、油っぽかった髪に清潔感が伴い、血色も見違えるほど健康的になった。たった一週間だけ、一年間のうち二分の期間だけ以前と同じ生活をする。みんなと会ったあとはまた元みたいに堕落した生活を送るようになっても構わない。そう考えたら、存外新たな習慣を続けることができた。

 実家に帰省し、そのまま行きつけの美容院に行ったときは、だらしなく伸びた私の髪を何度も持ち上げられてさすがに辟易した。こんなに長かったらどんな髪型にもできるよ、と言われたが、私は高校生の時と同じように、サイドと後ろを短めに、前髪を目にかからないくらいの長さに切りそろえてもらい、セットがしやすいようにすいてもらった。

 私の改造計画はまずまずの出来栄えであった。待ち合わせ場所につくと、そこに現れた私を誰もが私と認識してくれた。飲み会が始まってからも、私の外観の変化に言及したのは智樹だけであった。それも、「ちょっと痩せたんじゃない?」程度のものであり、私は自分が周囲を欺けていることに満足していた。



 四品目の軟骨のから揚げが運ばれてきて、でん、っとテーブルの真ん中に置かれると、智樹は当たり前のことのようについてきたレモンを全体にぎゅーっと絞りかけた。そしてそれをそのままぽいっと華音のレモンサワーの中に放り込み、これで生絞り感が強くなったんじゃねえの、とけたけた笑った。華音はちょっかいをかけられたのが嬉しいらしく、一口飲んで、苦いよこれ、どうしてくれるの、ほら、智樹も飲んでみなよ、と智樹にグラスを手渡した。智樹は、案外これいけるよ、と言って華音にグラスを返しながら言った。

「みんな自粛中さ、どんなことして過ごしてた?」

「私は料理結構頑張ってたかな。肉じゃがとか作れるよ」華音は野菜をとんとん切るジェスチャーを交えながらそう言った。なんの躊躇もなく料理を頑張ったと言える度胸、そして具体例に肉じゃがをチョイスする傲慢さに私は4杯目のハイボールを吹き出しそうになった。

「お、まじか!料理いいねー。じゃあ今度飲むときは華音ん家で頼むわ」

「えー?私の部屋狭いよー」確かに華音の部屋は、無駄なものが多く、元の部屋が広くてもそのせいで狭くなってしまっているのだろうと思った。

「んじゃ決定な。詩織は料理とかするの?」

「簡単なものだったら作れるよ。豚の生姜焼きとか」そうだ、それでいい。謙遜しつつ、具体例としは確かにそこまで複雑な手順のない生姜焼きを選択する。すました顔で梅酒ソーダを飲む。理想的な答えだ。あぁ、キャベツの千切りにマヨネーズを少しつけ、その上に紅ショウガを載せて最後に大きな一枚肉で包む。詩織の生姜焼きが今すぐ食べたくなった。

「すげえな、憧れるわ料理できる人」智樹はそう言って軟骨のから揚げを二個一気にひょいっと口に入れ、奥歯で半端に咀嚼しながら緑茶ハイをぐびぐびと飲んだ。

「詩織はさ、自粛中なにしてたの?」まさか終始豚の生姜焼きを作っていたわけではあるまい。私は彼女に話を振った。

「んー、いろんな人と電話してたかも」

「私ともしたよねー」

「そうそう。華音ともたくさん話したけど、他にも、部活の先輩とか、顧問の先生とか。後輩とも喋ってたかな」

「バレー部つながり強かったもんなー。どんな話してたの?」

「私ってどういう印象だった?みたいなこと聞いてた」

「そうそう、この子ったら、久しぶりに声聞けたかとおもったら、「華音ちゃんから見て、私ってどんな人だった?」なんて聞いてくるからびっくりしちゃったよ」

「なんだそれ、ウケるな。なんでそんなこと聞いて回ってたんだよ」

 詩織は一瞬悲しそうな表情をしたあと、カラカラと氷の音を立てながら梅酒ソーダを飲み切り、笑顔をつくりながら言った。

「いやさ、私達、大学入ったばっかりみたいな気持ちでいるけど、再来年には就活しなきゃいけないじゃん?家でじっとしている今この時間で、その時のための自己分析的なのができたらいいなーって」詩織が話している間、就活、という言葉に反応して、華音は口をとんふがらせて就活か、と小さくつぶやいた。

「意外とそういうところしっかりしてるよなー、詩織は」智樹はタッチパネルで次の飲み物を頼みながらそう言って、ついでに頼む人―と私たちにもお酒を勧めた。

「それで、先輩や後輩たちが詩織のことどう思っているか、わかった?」三人の中で真面目に聞いているのは私くらいのものであった。

「うん、完全に同じわけではないんだけど、大体みんなが言っていることは共通していた。私はどうやら、しっかり者で面倒見がよくて、何事にも継続して挑戦ができる人、みたい」

「おいおい、自慢かよ。でもま、俺ももし聞かれてたらそう答えるかなー」

「その答えをもらって、なにか不満でもあったの?申し分ない答えだと思うんだけど」

 私が高校時代の友人に、「俺ってどんなやつだった?」と同じ質問をしても、きっと似たような回答が返ってくるだろうと思った。高校生時分、私はリーダーや長のポジションを任されることがよくあった。リーダーシップがあり、前に立つ私を周囲は求めていたし、私自身、カリスマを演じることに愉悦を覚えていた。同じくリーダーに選出されることが多かった詩織とは、何度も協力し、青春の最前線で互いを認め合っていた。詩織は部活動の引退後、受験勉強に素早く切り替えて、地元にある国立大学に進学したわけであるが、それは私の目から見ても挑戦的で、努力家な人物に映っていた。だが彼女は、そうした評価を不服そうに受け取っている。

「うん、確かにうれしかったよ、すごく。でも同時に申し訳なくも思った。そうだった頃の私は今はもういなくなっちゃってるのに、なんだかみんなを騙しているような気がして」

「なーに言ってるの、私にとっては、詩織は今もずっと尊敬できる友達だよ」

「ありがと、華音ちゃん」詩織は華音が肩に乗せてきた手に自分の手を重ねて、困ったように笑った。

「料理に自己分析かー。お前は何やってたんだよ」ついにバトンが私のもとへ回ってきてしまった。ただお酒と煙草を交互に愉しむだけの日々だったとはとてもじゃないが言えなかった。仮に智樹が、自分の生活の堕落ぶりを話したとすれば、私達はその経験談を肴にお酒を飲めたが、私にその話をする資格はなかった。

「俺は、授業、まじめに受けてたから忙しかったよ、割と」

「大学に行ってまで勉強続けてるなんてすげえな。まあ確かに、いいとこだもんなー」

「俺が通ってる国際情報学部ってさ、留学生と英語でディスカッションしなきゃいけない授業もあってさ。こんな状況じゃなかったらTOEICまで受けなきゃいけないんだ。しかも学部の目標はスコア800。だから、こんな中でも勉強はしてるんだ、一応」高校生の時の私を知る三人にとって、これが模範解答だった。

「そりゃ大変だな、まあお前ならできるんだろうけどさ。あ、それとバイトもしてるって言ってたっけ」私は意気揚々とハイボールを飲んでいたが、智樹の発言でさーっと血の気が引いていくのを感じた。大丈夫、英語の勉強が大変と言っただけで、まだ詳細にどのくらい時間が制約されているかは言っていない。私は頭の中で架空の時間割を作り、水木土の週3でスーパーのバイトのシフトを入れることにした。

「俺の話なんかつまらないだろ。そういう智樹はどうなんだよ」智樹は私に話を振られ、待ってましたと言わんばかりに、にっと笑い、

「俺?俺か?えー、こほん。西野智樹18歳、この度童貞卒業いたしま」と空のグラスを胸の前に構え、背筋を伸ばして言い切るところだったが、五品目の牛スジ煮込みを持ってきた店員の、お待たせしましたーという明るい声に遮られ、不機嫌そうに手に持っていたグラスを店員に返した。

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