第4話

 結局私は、その二日後一人暮らしをしているアパートへ帰ることにした。故郷にいることでわかることは、すべてわかったような気がしたからだ。母は仕送りを持たせ、「もう帰っちゃうなんて寂しいけど、元気でね」と労わってくれた。父は私と母のやり取りを見て、「無駄遣いするなよ」と新聞の競馬欄を見ながら厳かな口ぶりで言った。

 私は一刻も早く地元から離れるために、新幹線を使った。高速バスの方が断然安いし、規制するときは現に高速バスを使ってきたのだが、母が手渡しでくれた紙幣を早く使い切りたかったため、新幹線の高いチケット代は好都合だった。

 最寄りの駅に着くと、駅構内と屋内通路でつながっている駅ビルのテーマソングが流れていた。私はこの曲が嫌いだった。小さい時、一度だけ関東にあるテーマパークに行ったことがあるのだが、そこでどんなに非日常的で楽しい経験をしても、この駅に着くと決まってこの曲が流れていた。それはまるで、「お前がどれだけ夢の世界へ逃避しようと、必ずここに戻ってくることになる」という強いメッセージのように思えて、それ以来私はこの駅を滅多に使用しなくなったのだ。

 曲からできるだけ早く離れられるように、私は足早に改札をくぐり、エスカレーターでホームへと向かった。新幹線のホームには、人はまばらにしかいなかった。丁度、お盆の帰省ラッシュと、その帰りのラッシュとの間のタイミングで帰ることになったのを、運がいいと感じた。アナウンスが入り、私は言われた通り黄色い線の内側に下がった。どこまで下がればいいかわからず、遠方に見えるスーツ姿の男性と同じくらいのラインで並んでいた。

 


 アパートについた私は、荷物を放り投げて、ベッドに大の字に寝転がった。そして目を閉じ、久しぶりの自分の部屋の匂いを嗅いだ。部屋は私が入居したときのような、古臭い木のような臭いと、数ヶ月でだいぶ様になったタバコの臭いとが混じっていて、多少カビ臭さもあった。服やペットボトルが乱雑に広がるこの部屋で、希望を胸に新生活を始めたときのことを思い出していた。

 私は今年の三月末、この部屋に引っ越してきた。備え付けの家具もなにもない部屋のために、一週間使って家具選びをした。カーテンの色からガラス張りの机まで、すべて自分で選んだ。E判定もとったことにある大学に逆転合格を果たした私を、両親は褒め、合格祝いだ、と私の希望通りのものを揃えてくれたのだった。高校からは、お前の経験をぜひ後輩たちに、と合格体験記なるものを書かされた。私は舞い上がっていた。努力していたことが実り、周囲がそれを認めてくれる。後輩からの「勉強のモチベーションがあがらないのですが」という悩みに対して、すべて結果論の主張で熱弁をふるった。後輩はそれでも私を尊敬してくれたし、先生たちも素晴らしいと言わんばかりの満足そうな表情を浮かべていた。多少、感染症の影響でイレギュラーなことはあったが、それがあったお陰で、逆境に立ち向かうたくましい受験生、という称号を手にした私は、SNSで進学先の大学名で検索し、輝かしい大学生活を想像して悦に浸っていた。念願の一人暮らしが始まり、感染症だってすぐに落ち着くだろうと思っていた。

 だが、私の甘い考えはほどなくして、緊急事態宣言という現実に叩きつけられた。

 近くのドラッグストアからマスク、アルコール用品などの、ウイルスから身を守るための品が突如姿を消した。次第に、同じ紙製品であるティッシュやトイレットペーパーがなくなる、という根拠のないデマが流れ、そのせいで私は二ヶ月間ウォシュレットとタオルでお尻を拭く生活を強いられた。本来ならホールを借りて大々的にやる予定だった入学式はオンラインでの生放送に替えられ、入学者向けパンフレットに乗っていた部活やサークルも、一切見学することができなかった。情報国際学部というたいそうな名前の学部に入学したものの、必修の授業はすべてPDFで資料が配られ、あとは週に一回ウェブ上で四十分程度の課題をやるだけの、全くおもしろみのないものに差し替えられた。

 SNS上では、華やかな学生生活を期待していた新入生たちが、授業料の減額を求める署名活動をしていたり、休学することを宣言していたりと、明らかにその様相を変えていた。私はそのようになにか行動を起こすことも面倒に感じ、ひたすらパソコンに向かって、授業を受けているふりをしながらオンラインゲームをやっていた。

 四月の中旬に一度、高校生の頃仲の良かったグループで、リモート会議をやってみよう、という提案があった。ついこの間まで同じクラスで授業を受けていた友人たちは春休みの間に随分大人びているように見えた。パーマをかけている者、髪を染め、ピアスを両方の耳に開けている者。彼らと久しぶりに他愛もない会話をすることは、幾らか私の孤独を埋めたが、実際に会っているときのような温度感で盛り上がることはできなかった。きっと全員がそれを感じていたのだろう。またやろうな、と一同は締めたが、結局二度と実現しなかった。

 酒を飲み始めたのは、そんなことのあった四月の終わりからだった。毎日画面の前で適当な課題をこなし、オンラインゲームに耽る。私には変化が必要だった。そして、部屋に一人でいた私にとって、その変化とは酒のほかに考えられなかった。初めて買ったのは、一番売れているという生ビールだった。父が美味そうに飲んでいたことを思い出し、何気なく手に取った。コンビニの店員は「画面の方、よろしければ承認ボタンをタッチしてください」と機械的に言うだけであって、一度も私の風貌を確認することはなかった。

 家に帰って机に向かい、パソコンを腕で除けながら、買ってきた缶ビールと柿ピーを置いた。カシュッと音を立て缶を開け、プルタブを引き上げてからもう一度倒す。冷気か炭酸ガスかわからない煙が微かに飲み口から漂ってきていた。口の中に少し含み、舌の上で転がして味わってみる。焦げ臭いような、それでいながら中途半端にしか火が通っていないかのような、小学生のころ遊んでいた公園に生えていた名もわからない雑草の匂いがした。思い切って飲み込んでみると、酒気が炭酸といっしょに喉をせりあがってきて、気持ち悪さと一緒に水っぽいげっぷが出た。口の中に広がったまま消えないビールの後味を消そうと、柿ピーの袋を開け、できるだけ多く口の中に入れ、すべての歯を使ってぼりぼりと食べた。すると、先ほどまでの嫌な後味が消えて、口の中の水分を奪った柿ピーは、そのまま胃の中へと落ちていった。驚くべきことに、私はごく自然にビールを口へと運び、じゅじゅっと音を立てながら一心不乱に飲んでいた。続けざまに柿ピーを頬張り、それをまたビールで流し込む。私は、「のどごし」というものを理解し、ルーティンワークのように、交互に酒とつまみとを繰り返し胃の中へと運んだ。

 酒を知った私は、毎晩違う種類の酒を飲んでいた。アパートから最も近いコンビニで売っているすべての種類の酒を飲み終えると、さらに多くの品ぞろえがあるスーパーへと通うようになった。アルバイトをしていなかった私は、実家からの仕送りで暮らしていた。送られてくるお金は大半がアルコールとなり、最後には二酸化炭素と水になって消えた。一度それとなく仕送りの額を増やしてほしいと伝えたことがあったが、電話口で私の私生活を怪訝そうに心配する雰囲気に耐えかねて、結局、酒以外で極力出費を減らす作戦へと移行することにした。当時の私の食生活は、茹で上がったパスタにお茶漬けのもとをかけたものと、コップ一杯のトマトジュースだけ、という極貧ぶりだった。そのうちパスタを見るのも嫌になったが、夜に飲む、いまだ未知の酒のためなら我慢できたし、本当にどうしてもパスタを食べたくないときはそれすらも食べなかった。今になって思えば、米を炊くか(最新型の炊飯器が部屋にはあった)、適当なパンを買ってくるかをすればよかったのだが、酒を飲むということ以外に関心がない当時の私は、そんな簡単な発想すらできなかった。虚ろな目をしながらオンライン授業に出席し、最後の授業が終わると冷蔵庫から新たな瓶を取り出し、そこからようやく私の一日が始まるのだった。

 煙草を覚えたのは六月の中旬、梅雨が始まったころだった。連日連夜酒を飲んでいた私は、二日酔いの気持ち悪さで朝目覚めることも少なくなかった。そんな日は、迎え酒だと意気込んで、授業を受けながら酒を飲むこともあった。酒を飲みたいときに飲む生活を続けていると、だんだん飲んでいるという認識が薄れ、私はさらなる背徳感を味わうべく、今度は煙草に手を出したのだった。最初に吸ったのは、アメリカンスピリットメンソールワンという、蛍光ペンのような、鮮やかな黄色いパッケージが目を惹く無添加の煙草だった。例によって形式的な年齢確認を通過した私は、コンビニを出るなりすぐさまパッケージのフィルムをはがしながら、喫煙スペースへと直行した。箱の蓋を開けると、紅茶のような、ほろ苦い香りがした。一本取り出して、私はまずそれを鼻に当て、ゆっくりと匂いを嗅いだ。木製の古い建物のような、懐かしい匂いがした。口に挟むと、火を点ける前からニコチンが脳内に侵入してくるようであった。恐る恐る百円ライターの火をあてながら、口だけで息を吸い込み、最初の一吸い目はふかす。動画を見ながら何度も予行演習をした甲斐あって、赤く燃焼を始めた煙草の火は、一瞬にして先を白と黒が斑に混ざる灰にした。ふーっと息を吐き出すと、煙は雨に溶けていった。煙草の先からはゆらゆらと一筋の細い煙が上がっている。もう一吸いしようと口元に近づけると、その細い煙が目に染みた。

 それから私は、かつて酒でそうしたように、コンビニのレジの後ろの棚にあるタバコの銘柄を、興味があるものから順に試していった。煙草は酒よりも単位あたりの値段が高く、これが意図せず私を断酒へと導いた。久々にアルコールが恒常的に脳からなくなり、最初は落ち着かず、イライラすることもあったが、ベランダに出て煙草を吸い始めると、そのような軽い禁断症状は煙とともに空へと消えた。恐らくだが、私は酒に対してというより、酒を飲むことに対して依存していた。家からほとんど出ず、理想の大学生活からかけ離れていた現実の私には、親身になって相談に乗ってくれる誰かが必要だった。私にとって酒はその相談相手であり、酒を飲むということは彼女に悩みを打ち明ける行為の代わりだった。だから、煙草という新たな彼女ができた私は、案外あっさりと酒を断つことができたのだ。いろいろな銘柄の煙草を吸った私が、再びアメスピに戻ったのは、燃焼時間が他と比べて圧倒的に長いからであった。彼女との相談料は多少値が張ったが、それでもその分長く一緒にいられたし、なにより彼女は甘かった。こちらが優しく、ゆっくりと吸って彼女を大切にすればするほど、彼女は私の想いに応えてくれるかのようにその甘さを増した。

 一学期の終わり、つまり七月の下旬になると、つまらなかった授業も随時終わっていき、レポート課題が各授業で出された。その頃、大学はようやく施設の利用を緩和させていき、大学の図書館は、入り口に体温計とアルコール消毒液が置かれ、ある程度気軽に入れるようになった。一度レポートを書くために行ってみたが、大学という巨人の脳に住み着いた寄生虫になった気分になり愉快だった。目当ての本を抜き取ると、そこだけぽっかりとスペースが空き、まるで寄生虫の私が、宿主の一部を内側からかじって食べてしまったようだった。私はその空白に、ポケットの中のアメリカンスピリットメンソールウルトラライトという、緑色の箱を差し込み、満足してその場を離れた。家に帰ってから、まだ十本は残っていたであろう煙草を置いてきてしまったことをひどく後悔した。その腹いせに、私は借りてきた本を隅から隅まで読み、そこから文字を抜き取るって白紙にしてしまう勢いで情報を吸収した。その甲斐あってか、そのレポートを提出した授業の評価だけAAをもらった。しかし他の授業についてはひどいもので、必修の単位もいくつか落とした。幸い、二年次以降で再履修できるため留年はすぐにはしないが、客観的に見て、私を二年生にするのはいかがなものか、と妙に客観的に考えた。

 レポートを書いている期間、私は一日のほとんどの時間、煙草を吸っていた。最初はベランダに出て吸っていたのが、それが窓際になり、換気扇の下になり、ついにはパソコンの前になった。明確に、吸いたい、と思っていたわけではない。癖、というのも少し違う。普通の人が自然な呼吸をするのと同じように、私は何の違和感もなく煙草を吸っていた。私が呼吸するときは、呼吸器系と空気の間に燃焼した煙草葉を介することになっていた。捨てるのが面倒でずっと部屋の脇に置いていた空き缶や空き瓶に、どんどん吸い殻が溜まっていった。煙草を吸うと、眠気もマシになるし、空腹もある程度紛れた。私の睡眠リズムは崩れ、体重はどんどん落ちていった。コンビニに行って帰ってくるだけで息切れするようになり、部屋に着くと呼吸を落ち着けるためにまた煙草を吸った。

 レポートの合間、久しぶりにSNSで通っている大学を検索してみると、私は衝撃を受けた。活動を停止している部活やサークルはまだあるものの、中には感染症対策をしています、とアピールしながら、少人数で新歓をやっているところや、リモートで活動しているところも多くあったのである。リプライ欄をさらに掘り下げていくと、私と同じ情報国際学部の一年生が、マスク姿で先輩らしき人たちと楽し気にピースをしている写真まであった。留学生と交流をする、というそのサークルでは、リモートで定期的に英語を使ったディスカッションをしているようで、先ほどの写真の一年生は、期待の新入生に与えられる賞までもらっていた。彼のアカウントのプロフィール欄には、めざせ「TOEIC800点以上!」と書かれており、それ以上調べるのが怖くなってそこでスマートフォンの電源を落とした。

 私は自分の部屋の周りを見渡した。彼が英語力を高め、国際交流を通じて可能性を広げている間、私はなにかを成し遂げられただろうか。私の問いかけは虚しく、ヤニで黄ばんだ壁に跳ね返り、部屋に散らかった空き瓶の中に沈んでいった。私は必死で探した。彼がそれを見て羨むような、私の中にある何かを。だがそれすらも私は途中でやめてしまった。すべて探した結果、もし私にだけある何か、がないとわかってしまったら、あまりにも惨めだと思ったから。それに、アルコール度数九%のチューハイを飲んで煙草を吸えば、目標に向かって頑張る彼を見下せることを知ってしまったから。

 八月に入り、レポートで私に残った気力のすべてを使い果たした後、私はただ寝て過ごした。あれだけハマっていたオンラインゲームも、自分の限界がわかってから急激に冷めてしまった。急上昇ランキングに連なる、賑やかに騒ぎ立てる類の動画はただただ耳障りだったし、受験が終わったら読もうと思っていた漫画も、海賊版サイトですべて読み終わってしまった。本格的にすることがなくなった私は、寝ることで十八歳の夏という貴重な時間を使った。寝ることは本当に気持ちがよかった。どんなに辛く、目を背けたくなるような現実があろうと、寝ている間はそれを認識することはなかった。たまに夢の中でも何か虐げられるようなことが起きて、最悪の目覚めを迎えることがあったが、酒を呷ってしまえば、また幸せのうちに眠ることができた。

 智樹が高校三年生の時のクラスチャットに連絡を送ってきたのは、お盆に入る十日前くらいであった。私は警戒していた。大学生が大人数で集まって感染が起きた時にどうなるかは、言わずもがなであったからだ。大学名が公表されると、世間からその大学がバッシングを受ける。それどころか、どこから漏れるのか、集会に参加した個人まで特定され、ネット上では誹謗中傷の石を投げられる。私の実家のある市では、感染者が出た家に本当に石が投げ込まれるというちょっとしたニュースもあった。どうせ今回の集まりも、話は盛り上がらずに流れるだろう、と私は踏んでいた。しかし、私の予想は見事に外れ、結局十六人が集まった。そしてその中にはまるで別人のようになった北川と、私がまだ知らなかった詩織もいた。



 いつの間にか私は、随分長い間寝ていたようだった。時計を見ると、アナログ時計の短針はカラフルな文字盤の「5」を指していた。午前か午後かもわからないまま、私はキッチンに行き水を飲んだ。

 水を一気に飲んだ後、冷静になった頭の中でずっと、詩織と過ごした夜のことを考えていた。彼女は、目に映る世界は紛れもなく真だと言っていた。そこに“いちばんたいせつなこと”もある、と。私が彼女の前にいる間、あの大きな黒目にそれは見えていたのだろうか。見えていたのなら、なぜ私に教えてくれなかったのだろうか。彼女もまた、忌み嫌うキツネのように、私を騙そうとしていたのか。いや、それはない。少なくとも、客観的な事実はそうではない。彼女の目は、真剣に、真実を語ろうとしていた。彼女が言う通り、目の前のものが真であるなら、彼女の目は真で、語られている内容の根拠に十分なりえた。

 彼女はそれから、目に見えないものや考えが及ばないことは、仮定はできるが証明はできないと言っていた。ならば、朝目覚めると別人になってしまっている、という彼女の仮定もまた証明できない。彼女がそれを証明するには、仮定した通りのことを実際に経験する必要がある。しかし、ひとたび経験すれば、それはもはや証明する必要はなくなる。目の前の今ここが真であると、疑いなく思っているなら、なぜそんな突飛な仮定をする必要がある。そこまで考えて、さすがにじっとりと汗がにじんできたので、私は冷房の効いた部屋に戻ることにした。

 パソコンの前に座り、目的もなく電源を点ける。徐に箱から最後の一本を取り出し、ライターを何度か引いて火を点けた。私は視点を変えて、なぜ私はここまで彼女の考えを理解しようとしているかを考えてみることにした。そして、それはおそらく、彼女は私の考えを理解している一方で、私は彼女の考えを理解できていないことの非対称性を解消したいからだ、という答えに行き着いた。駅のベンチで、私は彼女に、自分が分からなくなる時がある、という話を切り出した。それが話し終わる前に、彼女は私が言おうとしていたことを先に言ってしまった。その後彼女の部屋に行ってからも、会話の主導権は終始彼女が握っていた。これは私の推測だが、私が考えていることのほとんどを、彼女はすでに考え終わっている。そして、私がまだそこまで到達する前に、彼女は今の彼女の考えを私に話していたのだ。彼女は孤独だったに違いない。私が言うところの「表の」彼女が急にあんな話をし出したら、それこそ、哲学だねと揶揄されて終わってしまうだろう。かといって、私のように真剣に話を聞く人を探すのは難しい。朝起きると別人になっているかもしれない、という話は、彼女なりのジャブだったのだ。それに対して、深いね、すごいね、そんな言葉が返ってきたら、彼女はそこで話をやめる。私のように、似たような悩みを持ち出してくる人なら、彼女の部屋へと招待される。これが真実かはわからないが、一応筋が通った説明のように思えた。

 では、自分について考えると、余計に自分が分からなくなる、という私の苦悩に対し、彼女はどんな答えに辿り着いたのだろう。一番単純な答えは、「そうやって悩む自分こそ、まさに自分なんだよ」だろうか。だが本当に彼女はそう答えるだろうか。「そうやって悩む自分も自分だし、考えの対象となっている自分自身もまた自分なんだよ」こっちのほうがまだしっくりくるが、それでも少し違うような気がした。「君が思うような、輪郭がはっきりとした自分なんてそもそもいないんだよ。君は、君を除いた、君以外の世界のすべてによって、逆説的に定義されるの」こうだろうか。私は様々なパターンの答えを想定してみたが、結局どれも自信がなく、思考しているうちに最後の煙草はすべて灰になった。


 あの日の翌朝、私が目を覚ますと、デスクの上には黒いマグカップにコーヒーが淹れられており、メモ用紙が底に挟まれていた。

『おはよう寝坊助くん。服畳んでおくから、それ着て帰ってね。スウェットは適当に置いといて。鍵は玄関に置いてあるから、出るとき閉めて郵便受けに入れて行ってね。』少し丸い、いかにも彼女らしい字でそう書かれていた。文字の色はピンク色で、私は少し恥ずかしい気持ちになった。私はその指令の通り、服を着替え、コーヒーを飲み干して玄関へと向かった。鍵はドアノブに引っかかっており、手に取るとクマのキーホルダーが揺れた。外に出るとこの夏一番の強い日差しで、こんな日に彼女はどこに行ったのだろうと訝しく思った。

 私は、冷房の効きが弱く、生ぬるいバスにのり、自宅へと帰った。家に着くと、庭で花に水をやっていた母が遠くから、「あんた、遅くなる時は連絡しなさい」と小言を言ってきた。曖昧な返事をして自室に戻った私は、すぐに高校の卒業アルバムを開いた。在学中にあれだけ楽しみにしていたものが、卒業してからは一切その存在を忘れていた。卒業式の写真を載せるために、卒業してから一ヶ月後に届いたそれには、何一つ疑問を持たず、屈託のない笑顔で映っている私がいた。高校生時分の私は、多くの希望と可能性に満ち満ちていた。体育祭になれば応援リーダーをやり、文化祭になれば実行委員をやった。自分から立候補することもあったが、やっぱお前しかいないっしょ、と周りから推薦されることもしばしばあった。定期テストも近いし、両立厳しいな、と言いながら、私はその状況に酔っていた。話し合いで衝突すれば人並みにイラつきもしたし、結果に悔しい思いをするときもあった。だが、そんな経験ですら、私は「青春」の一ページに新たな歴史が刻まれたと思い、心の底から挫折を味わう、ということを知らなかった。その時は本気で挫折した気になっていたのかもしれないが、今の私から言わせれば、もう一人の私が監督を演じてメガホンをとっている映画の演出のようなものだった。ここは主人公が熱く自分の感情をぶつけるシーンだ、ここは必死にやった努力が報われて感動の涙を流すシーンだ。監督は事細かに縁起の指導をしてくれた。その証拠に見よ、アルバムに移る私の写真を。どれをとってみても、それはあまりにもドラマチックすぎていた。不意に撮られた、何気ない日常風景の写真ですら、主演俳優インタビューの特集ページに載るオフショットのようだった。

 一通り自分の写真を見終わった後、私は詩織の写真を探し始めた。バレー部に入っていた彼女の、大会に参加しているときの写真が真っ先に見つかった。彼女は耳のあたりで短くそろえられた髪をふわっと揺らしながら、ボールに強烈な一打を加えようとしていた。見開かれた目は相手コートの方を睨んでおり、彼女が部活動にいかに真剣に打ち込んでいたかを伺うことができた。文化祭のページには、ゾンビに仮想した彼女の写真があった。隣には華音が移っており、二人で顔をくっつけながら口をひらき、爪を立てて手を中途半端に閉じていた。個人写真のページでは、彼女の唇は光沢をもって弧を描いており、タレントの宣材写真のように可愛らしい表情をしていた。どの写真を見てみても、それは高校生の時人気者だった紛れもない彼女であって、自由な青春を謳歌しているように見えた。

 詩織の写っている写真を大方探し終わって、最後に私は、北川の写真を探してみることにした。彼女の写真を見つけるのには苦労した。なにしろ、例によって彼女は写真の背景と同化していて、たとえ構図の中心に置かれていても、私の目はそれを彼女であると認識せず、何度もスルーしてしまっていた。ようやく彼女を見つけたと思っても、とくに何かしらの感情は湧いてこなかった。高校時代、机と椅子の間のオブジェクトだった北川は、写真の中でも、ただそこにいるだけ、であり、笑顔で映っていても、その笑顔から彼女が楽しんでいる様子は伝わってこなかった。しいて感想をあげるなら、この無機質な彼女が、なぜあれほどまで明朗な人になれたのだろう、そういった特徴のない疑問くらいのものであった。


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