第2話

「お前、ちょっと痩せたんじゃない?」お通しのもずくを誰よりも早く食べ終わった智樹がそういうと、その場にいた友人たちも一斉に私の方を見た。

「そうかも。最近作るのも食べに行くのも面倒でさ」おまけに食ってもよく吐いちゃうんだよ、とまでは言わなかった。

「えーいいなー、面倒でも私だったら食欲が勝っちゃう」正面に座っている華音は、そう言いながらタッチパネルで次のお酒を注文しようとしていた。

「でもなんとなくわかるなー。最近さ、自粛自粛ってムードがすごくて、気軽にスーパーも行けないよな」智樹は華音に空いたグラスを見せ、ジェスチャーでおかわりを頼んでいた。

「そんなこと言って、今日集まろうって言いだしたの智樹君じゃん」智樹の正面、華音の隣に座っていた詩織は悪戯っぽく目を細めながら智樹にそう言った。

「だってさ、さすがにずっと家ん中籠ってもいられねえっての。たまにはこうして外で遊ぶからこそ、精神が健康になり、すなわち、身体も健康になるってわけよ」自慢気にそう話す智樹のお腹は、高校を卒業した四ヶ月前に比べて明らかにだらしなくなっていた。

 店員が一品目のチーラー枝豆(枝豆に粉チーズとラー油をかけたもので、当店の自信作です、と智樹が我が物顔で説明してくれた)を運んでくると、みんなはお通しの入っていた皿を交換するようにして渡した。その様子がまるで、チーラー枝豆を食べるには空の皿を対価として支払わなければいけないように見えて、まだお通しに手をつけていなかった私は、勢いよくお通しのもずくをすすった。思いのほか酢が効いていたため咽てしまって、口を閉じながら数回咳が出た。智樹がここぞとばかりに、

「お、まさか例のあれか?」と茶化して来たのだが、そのニヤけた口の端に、粉チーズが付いているのが可笑しくて、自然に笑い返すことができた。

 ニュースは連日、感染症がいかに驚異かを大々的に報じていた。私にはテレビを見る習慣がなく、せいぜいトレンド上位のネットニュースを見るくらいであったのだが、どういうわけか、そういったニュースは私の耳にも侵入してくるのであった。今年のお盆休みが一つの山場となる、険しい表情で著名な学者たちが討論していた努力も空しく、智樹は「みんな元気⁉ 今年のお盆集まろうよ!」と四ヶ月間全く動きのなかったクラスチャットで発言した。よほど孤独を感じているのか、結局十六人も出席することになった。集まったメンバーは、高校生の時にいわゆる「青春している」雰囲気を醸し出していた者たちであり、参加者が決定する途中で、やっぱり、という考えを禁じえなかった。ただ一人、北川を除いては。彼女は私の位置から最も遠い位置に座っており、横顔がちらちら見え隠れする程度であったが、その表情はこの場にいる誰よりも楽しそうに見えた。

「お前は大学で友達とかできた?」北川のことを考えているうちに、どうやら話は人間関係についてのことに変わったようだった。智樹が私に話を振る。

「まあぼちぼちかな。バイト先に偶然同じ学科の同い年がいて、それで仲良くなった感じ」

「やっぱバイトだよな。おい、まさかその同い年の子っていうのは女子か?」

 ひどくどうでもいいことを聞いてくるものだ。そんなことを気にするなら、口の端についたままの粉チーズを気にしてくれ。私はその質問に答えるため、新たな設定を加えることにした。

「女子だよ、一回バイト終わりに飲み行った」

「いいなー。どんな感じの娘だったの?」詩織は私の秘密を暴こうとしてきた。

「明るくていい娘だよ。彼氏はいないって言ってたけど、全然いてもおかしくない感じ」ここまで発言してから、はて、どこからが嘘だったかを考えた。

「めっちゃいい感じじゃん。彼女できたら教えてね」と華音は二杯目の「生絞りレモンサワー」についてきたカットレモンを勢いよく絞りながら言った。だが申し訳ないことに、私には「めっちゃいい感じ」の女子はおろか、大学での友達一人すらいなかった。だが、目の前の三人にとって、私に「めっちゃいい感じ」の女子がすでに一人いるのは、友達が一人もいないということよりもむしろ真実に近いようだった。

 店員が二品目の豆腐サラダを持ってくる。さっきまで私たちのテーブルの主役だったチーラー枝豆の皿が横に除けられて、豆腐サラダに世代交代させられた。わきに追いやられたチーラー枝豆は、智樹と華音によってほとんど平らげられていた。もう三つしか残ってないうちの一つを、さらに華音が摘まむと、ラー油に浸った二つの枝豆が溺れているように見えて、すぐに助けなくてはいけない気持ちになった。

「最後残ったの、私たちで食べようか」詩織は全然食べていない私に気を使ったのか、そのような提案をしてきた。

「じゃあ俺こっち食べるわ。ラー油たっぷりついてるし」そう言って私は、より溺死しそうな枝豆を救った。もう一方の枝豆には粉チーズが斑点模様のようについており、なにかの病気に侵されているようにも見えた。

「粉チーズが濃厚で美味しいね」

 殻を捨てようとした詩織の手がこちらに伸びてくるのを見ると、指の先には粉チーズがラー油を媒介してくっついていた。この指を使って普通の枝豆を食べれば、塩茹でされた普通の枝豆も、チーラー枝豆になる。私がもらった、ラー油しかついてない枝豆は、詩織に食べられるべきなのではないか。そうしてこそ、このラー油枝豆はチーラー枝豆になれる。

「私取り分けちゃうね」詩織は粉チーズとラー油のついた指をちゅぴっ、と舐めた後、おしぼりで舐めた箇所を入念に拭きながら、膝立ちになって豆腐サラダに取り掛かった。

「なあそういえばさ、北川雰囲気変わったよな」智樹はそう言っておしぼりで自分の口の周りをぬぐった。ようやく口の端の粉チーズが取れた。

「夕夏ちゃん、可愛くなったよね。垢抜けたっていうか」豆腐サラダを四人分盛り分けた詩織が同調すると、華音もどこか不満げな顔で、たしかに、と小さく言った。

「なに話してるんだろうな、あのテーブル」私はそう言って、北川が高校生の時どんな少女だったかを思い出していた。

 高校三年生の時に北川と同じクラスになった時、私は初めて彼女の存在を知った。同じ高校にずっと通いながら、見たことがない人がいるものかと驚いたが、その理由はすぐにわかった。彼女は教室と同化していたのだ。椅子に座って机に向かっているとき、彼女は机と椅子の中間の家具のようであった。椅子と机の間には、北川を置くことになっている。そう説明されて納得し、自分の席にも北川があるべきなのだと思わせられる。だから、北川を知る前なら絶対に北川には気づけないが、一度北川を認識してしまうと、彼女がいないことの違和感に耐えられなくなる。そういう存在だった。同じクラスで仲のいい男子のグループ五人(その中には智樹もいた)で一度、クラスの女子で誰と一番付き合いたいかという話をしたとき、なぜかみんなは第三位に北川の名を揃って挙げていた。そこでも北川は、私たちのランキングの三位にいることが当然であるとでも言わんばかりに、澄ました顔でランキングと一体化しているように思えた。彼女は巧妙に擬態しつつ、堂々とした響きを放っていた。

 北川は確かに私たちの記憶に残っていたし、彼女が今日の集まりに来ることを嫌がる者はいなかっただろう。だがそれでも、彼女がこの場にいるのは、些か不思議であった。ひたすら教室と一体化していた北川は、ここに集まっている大半の者とは違い、「静かでおとなしい子」だったのだ。長くて艶のある彼女の髪は、彼女の横顔をいつも覆っており、それが一層の落ち着きを演出していた。目じりにかけて鋭く結ばれている彼女の大きく丸みを帯びた目の先は、いつもブックカバーのかけられた本に向けられており、だれともコミュニケーションをとりたくないという意思表示のようであった。筋の通った鼻と、薄く切り込まれたような口は、ただ空気の入れ替えをするだけの換気口にすぎず、無機質な印象を周囲に与えていた。

「大学で男でもできたんじゃないの」華音はそう言うと、自分の発言でさらに不機嫌になったようだった。北川に彼氏ができるというのは考え難かったが、なぜ彼女が変わったか、ということには私も関心があった。今日の北川は、明らかに背景から浮いていた。机と座布団の間に、絶対に北川というオブジェクトだけは置いてはいけない。かつて彼女にあった自然さがなくなっているのは、不安に感じる一方で好奇心を刺激された。

「私も二杯目頼もっかな。みんなはどうする?」詩織がそういうので、私は、「アルバイトのリクちゃんおすすめ!真のジンジャ―ハイ」を頼んだ。豆腐サラダを一口食べると、にんにくチップスの芳ばしい香りが鼻から抜けた。その香りが鼻に残っているうちに、今度は残りのビールを一気に流し込む。炭酸が喉を通り抜ける瞬間のピリピリとした清涼感を楽しみ、熱い空気を鼻から出す。口の中には麦とアルコール独特の苦みが広がり、私はたまらず豆腐サラダの二口目をかき込んだ。

 店員は三品目の刺身の盛り合わせを持ってくると同時に、「真のジンジャ―ハイ」と梅酒ロックを運んできた。「真のジンジャ―ハイ」は生ショウガのすりおろしが入っており、目が覚めるほどの強烈な爽やかさが食欲を促進させた。

「美味しそう。私も一口もらっていい?」詩織はそう言うと、ひょいっと私のジンジャーハイを持ち上げ、ぷっくりとした唇をグラスにつけて飲んだ。「んーっ」と気持ちよさそうな声をあげ目を細める彼女の顔を見て、真のジンジャーハイは彼女に飲まれないと偽のジンジャ―ハイになるのではないかと考えた。詩織があまりにも美味しそうに飲むので、それに釣られて華音も飲みたいと言い出した。詩織からグラスを受け取った華音は、意図してそうしたのか、私が口をつけた箇所に重ねるようにしてそれを飲んだ。ああ、真のジンジャーハイはたった今偽のジンジャーハイになってしまった、と私は残念に思った。

「北川程じゃないけど、華音と詩織も垢抜けたよな」智樹は私に同意を求めて顔を向けた。

「そうだね。綺麗になった」半分は本心だった。少なくとも詩織は本当に綺麗になった。肩くらいまでの長さの髪を明るく染め、毛先にかけて自然なカールが巻かれていた。白地のTシャツにはおしゃれな字体でなにやら英字がプリントされており、その飾らなさが彼女の可愛らしい顔を引き立てていた。袖から伸びる健康的な小麦色の腕は華奢で、梅酒を飲むときに両手を使うのも当然だと思った。

「綺麗になったとか、面と向かって言われるのウケるんだけど」華音は気分がよさそうにレモンサワーを飲んだ。私の先の発言は半分本当だったが、半分はそうではなかった。とどのつまり、綺麗になったと思ったのは詩織だけであったので、自分が褒められたかと勘違いしている華音の反応の方が、むしろウケた。

 その後、話は高校生の頃の思い出、受験期のつらかった話、思い描いていた大学生活を送れないことに対する愚痴へと次々繋がっていった。店員が八品目のジェラートの盛り合わせを持ってくるころには、私達はだいぶ酔いが回っており、だれが何を話しても絶対に笑いが起きた。あやふやな景色の中、私は視界の隅で北川だけがはっきりと見えていることを認識していた。アルコールが脳に廻り、五感すべてを痺れさせるほどに、むしろ北川だけは感覚に訴えかけてきた。何味かもわからぬ状態でジェラートを平らげた私は、おぼつかない足取りでトイレへと向かった。個室に入るなり、私は鍵をかけることも忘れて、便器に手をついて蹲った。そして、そのまま便座を上げて顔を中に突っ込むようにして前に出し、今日食べたものをすべてその場で吐いた。白く清潔感のあった便器は一瞬にして黄土色に塗り替えられ、ふちに細かいカスが飛び散った。胃が瞬間的に縮み、それに反して喉はぐぐっと広がる。アルコールで焼けた喉を胃酸がさらに熱くしながら、私は吐き続けた。最後に食べたジェラートから、お通しで食べたもずくまで、まるで今日の飲み会のハイライトのように、私の舌の上を様々な味のものが通過していった。ようやくすべてを吐ききった私は、確認するように執拗に自分の指を喉の奥に突っ込み、胃を痙攣させながら嘔吐いた。飲み食いした以上の量があると思えるくらい、便器の中はたっぷりの吐瀉物で満たされていた。自分の指や便座の淵を拭いた後のトイレットペーパーはふわっとその吐瀉物の上にのっかり、荒波の中の離島のようだった。

 用を済ませた私がトイレを出ると、共用の手洗い場で北川が手を洗っていた。北川の存在感は先ほどのように圧倒的ではなかったが、それでも私をドキリとさせた。鏡越しで私の姿を確認した北川と目が合った瞬間、私は視線を逸らすことができなくなった。北川の目はアルコールのためか、トロン、となっており、充血していた。色っぽい流し目にくぎ付けになった私は、高校生の時と同様、なにも話しかけられなかった。だがそれであると同時に、北川の方から話しかけてくることを期待してもいなかった。何事もなかったかのように、手を洗い終えた北川は席に戻る。そう思っていた。

 しかし、そんな私の考えをよそに、北川は薄い唇に笑みをつくりながら、

「そんなに気になる?私のこと」と、ただそれだけ言った。

 私の心臓の鼓動はより一層早くなった。北川のことを見ていたことがバレた?北川の変化に関心があったことが気づかれた?それとも、私自身まだ意識できていないやり方で北川のことを考えていることを、北川はすでに見抜いたのか?アルコールを吐き切り少し冷静になった頭で考えていると、北川はくるっと振り向き、私を直視した。大きく凛とした黒目の視線の先は、ブックカバーのかけられた本ではなく私に向いていた。私は、自分の思考が読まれているような気がした。ただの換気口だと思っていた口から、初めて私にだけの言葉が出てきていることに感動している、この思考も北川からは筒抜けなのではないか。北川は若干の嘲りを笑みに加えて、

「今度、手取り足取り教えてあげる」と言って顔を近づけ、私の口に短くキスをした。彼女の薄い唇は程よい弾力があり、彼女が近づいてきた拍子にはふわっと林檎のような甘酸っぱい香りが広がった。

 席に戻ると、智樹が飲みのお代を回収していた。各々店を出る支度をしており、私も慌てて財布を取りだした。来るときに確認していなかったが、千円札が四枚入っており、なんとか誰かから借りるハメにはならずに済んだ。

 智樹が「準備できた人から先に外でちゃって」と急かすので、ひとまず私は店をでてすぐのところにある喫煙スペースに向かうことにした。ニコチンは不思議なもので、ニコチンが体内になくなると私の行動を変化させるのである。ニコチンによる何かしらの効果で私の行動が変化するのなら納得できる。だが、その逆、ないことによる欠乏感で私を動かすのである。いそいそと靴を履き外に向かうと、後ろから、とてとて、と詩織が小走りでついてきた。

 彼女は、しゅっとしたアディダスのラインパンツを履き、頭には黒のキャップを被っていた。肩から腰にかけて斜めにかけたバッグの紐が彼女の控えめな胸を強調させ、Tシャツにプリントされた英字はゆがんでいた。

「詩織もタバコ吸うの?」このタイミングで私に同行するということは十中八九そうだったが、詩織が煙草を吸うということが意外だったので、改めて確かめるように私はそう言った。

「んー、まあちょっと」それは頻繫ではないが吸う、という意味なのか、それともお茶を濁す言い方をしたかったのか、判断できなかった。

 喫煙所には誰もいなかったので、私は灰皿を真ん中に据えるようにして詩織と向かい合った。ポケットから萌葱色のパッケージの箱を取り出し、一本咥えて火を点けようとするが、詩織は一向にそのそぶりを見せない。

「今日忘れた?いる?」と私はタバコを加えたまま喋ったので、タバコが上下にひゅっひゅっ、と揺れた。

「あ、えっとね、タバコは、いらない」それなら喫煙所において他になにがいると言うのか。私は腑に落ちないまま、「あ、そう」と言い、ライターで火を点けた。詩織は私の口から煙が吐かれるのを真剣な目で見ていた。

「俺になにか話したいことがあるんだろ?」無言で見つめられるのに耐えかねて、私はそう言った。

「あ、うん、そうなの。その、大したことじゃないんだけどね」それは大したことを言うときのジャブだ。私は心を構えた。

「さっき、夕夏ちゃんとなに話してたの?」

 私はメンソールの爽快感が一瞬にしてなくなるのを感じた。

「なにって、なにも話してないけど」タバコを吸う勢いが強くなり、激しく燃焼したタバコの先からぽろっと灰が落ちる。

「そう?でも夕夏ちゃんの声聞こえたよ?」彼女はどこまで知っている。私は私でなぜ隠しているのかわからなかった。

「それは、単に久しぶり、って、それだけ」彼女からできるだけ遠いところに向かって煙を吐き、目だけを彼女に向けた。どんな疑いの目を私に向けているのか、と緊張していたが、予想に反して、彼女は微笑んでいた。

「なんだ、そうだったんだ、よかった」なにもよいことはない。私の中ではまだなにも解決していない。「あのさ、いつまでこっちにいるの?」彼女は急に話題を変えた。

 彼女が私の何を探っていたかはわからなかったが、ひとまず危機は去った。私はすがすがしい気持ちで、ゆっくりと息を吸った。タバコの葉が低い温度でじりじりと焼かれ、フィルターを通った純粋でフレッシュな気流が口の中に溜まっていく。タバコを口から離し、夜の冷えた空気とブレンドし、ほっ、と肺に流し込む。気道に程よい重さのキック感があったのち、口から白い煙を吐き出し、残りの息は鼻から出すことでメンソールの後味を楽しむ。

「決めてないけど、あと一週間くらいはいる予定だよ」そう言うまで、私はどのくらいの期間帰省しているか全く決めていなかった。たった今、私はあと一週間実家にいることが決定したのだった。

「それならさ、来週の火曜とかって空いてる?」来週の火曜日が何日かも、何日後かもわからなかったが、私の予定は空いているに違いなかった。

「空いてるよ。飲み?」右手の人差し指と中指との間に挟んでいるタバコのフィルターの端を、親指でひっかくようにして弾く。今にも崩れそうだった先の灰は、勢いよく灰皿に吸い込まれていった。

「うん、智樹君が特に仲のよかったメンバーで飲みたいって言ってて」

 そこには、私と詩織と、智樹と、やはり華音も来るのだろうか。特に仲のよかったメンバー、という言い方に妙な疎外感を感じながら、私はただ、いいね、と煙混じりの声で一言返した。

 一本目のタバコが終わるころ、丁度中からぞろぞろと旧友が出てきた。3人で肩を組み、狭い自動ドアを乱暴に押しのけながら出てくる輩もいた。智樹は華音とマスクを顎までずらして話しながら出てきた。誰が指示したわけでもないのに輪っか状にみんなで並び、歪な形の円ができた。通行人は迷惑そうな顔をしながら私達を必要以上に避けて通っていった。その歪な円は、一人分ぽっかりと穴が開き、途中で切れていた。一度閉まった自動ドアが再び開き、ちりんちりんという鈴の音を出囃子に、北川が出てきた。先ほどは注目する余裕がなかったが、北川は、腰のところできゅっと絞られた黒レースのワンピースを着ていた。肩から胸の上部にかけて、薔薇模様の刺繡が入っており、色白の肌が透けて見えるのが美しかった。首回りの襟の部分はレースが濃くなっており、チョーカーのようだった。円をつくっている者は、みなふらふらとしており、立っている重心を右足、左足、と不規則なリズムで入れ替えていた。しかし、北川だけは少し高いヒールを履いた脚をぴたっと閉じ、首を少しかしげながら涼しそうな顔で髪を耳にかけた。その立ち振る舞いに見惚れていると、北川と目が合った。私がまたその目線を逸らせないでいると、彼女はきゅっと唇をすぼめて、右目でウインクをした。夏の夜風にのせられて、林檎の甘酸っぱい香りがふわっと私を包んだ。

「えー、それじゃ、二次会行く人!」智樹がそう言うと、その場にいるほとんど全員が手を挙げた。十三人の視線は、私、詩織、そして北川の三人に分散して向けられた。

「えー、詩織ちゃん行こうよー」華音がさして残念でもなさそうな声でそう言うと、詩織は「ごめんね、明日ちょっと早くて」と手を合わせて弁明した。私は詩織のように誰かから呼び止められる前に手持ちのカードを切った。

「悪ぃ、俺実は、今日の夜十二時締切のレポート提出しなきゃなんだわ。まだ半分くらいしか終わってなくてさ」私がそういうと、一同はどっと笑い、それは仕方ない、お前まじでウケるな、と口々に言った。

「じゃあ二次会はあとのメンバーで行くか」と智樹は予定を確定させ、「俺店電話してみるわ」と輪から外れた。北川が二次会に参加しないことは誰一人言及しなかった。

「また年末とか会おうな、おつかれ」

 私は二次会組に手を振りながら、駅に向かって歩き出した。じゃあ私も、そう言って詩織も私に少し遅れて輪から出てきた。北川は特に別れを言うわけでもなく、ぺこっと一度頭を下げ、駅とは正反対の方向へと消えていった。

「今日は楽しかったね」詩織は快活に歩きながら笑顔で話しかけてきた。駅に向かう道は、道全体が酒気を帯びているような、そんな熱があった。

「みんな元気そうでよかったよ」私も周りから同じように、元気そうに見られていたのだろうか。詩織の、楽しかったね、という発言に対して肯定も否定もしなかった。

「ねー。それに私、みんな普通にお酒飲み始めるからびっくりしちゃった」私はそれを聞き、ポケットの中で弄っていたタバコの箱の蓋を閉めた。

「詩織も結構飲んでなかった?」

「私今日初めて飲んだんだよ!」詩織は声を高揚させて、子犬のように私の顔を覗き込んできた。

「そうだったんだ、梅酒ロックとか頼んでたし、随分慣れてるなーって思ってた」私がそう返すと、詩織は全然全然と大げさに手をふりながら、

「隣のテーブルから聞こえてきてさ、お酒通の人はこれを頼むんだなーって思って、それで私も頼んだの」と種明かしをした。

「それで、どうだった、初めてのお酒は」

「んーなんかね、楽しかったよすごく。頭がぽーっとしてくるし。今ちょっと頭痛くなっちゃってきてるけど」

 詩織は初めて口にしたアルコールの感覚を思い出すように上を見た後、えへへ、と照れるようにして今度は下を向いて頭をとんとんっと叩いた。

「それなら少しあそこのベンチで座っていかない?さっき確認したけど、電車まで時間あるし、俺もなんか疲れた。」私はポケットの中のタバコの箱を開けながらそう言った。

 詩織がベンチに座ったあと、私はすぐには座らず、そのままほんの少し先に進んだところにある自動販売機へと向かった。詩織は私の意図をすぐに察し、離れた位置から「ありがとー」と声をかけた。そして、水のボトルを二本持った私が彼女に一本渡すと、「苦しゅうないぞ」とおどけてみせた。

 きりきり、と音を立てながらキャップを回し、口に水を傾け入れる。口の中の温度は一機に下がり、そのまま喉を通って直接的に胃に落ちていく。一息で半分ほど飲んだ私は、今夜のすべてがリセットされた今のこの感覚のままタバコを吸ったらどれだけうまいかを想像した。

「水ってこんなにおいしかったんだね」詩織はそう言って、ボトルの蓋をゆっくりと閉めた。伸ばした脚をぱたぱたとさせ、被っているキャップの角度を微調整する。このふとしたときの仕草に、男子高校生だった私たちはよく翻弄されていた。

「電車、あと三十分はあるから、ゆっくりでいいよ」代わりに一本吸ってもいい?と聞こうとしたが、路上喫煙禁止の文字が目の前の歩道に描かれているのを見て、仕方なく私はもう一口水を飲んだ。

「ありがと、優しいね」そう言いながら、詩織はどこか寂し気な顔をした。「なんか帰りたくないなー」詩織は足をパタパタさせるのをやめ、しゅっと今度はその足を折り曲げ、ベンチの下に潜り込ませた。

「俺も。このまま帰りたくない」こうしてかつての友人と一緒に過ごすのは久しぶりで、一人になるのは惜しかった。

「明日が来なかったらいいのにね。私、夜が怖い」

 私は驚いて詩織の方をみた。彼女の物憂げな表情は、高校生の時には見たことがないものだった。詩織は誰もが認める明るくかわいい子で、いつも周囲に笑顔を振りまいていた。部活動や進路のことで悩むことはあっても、このように、わかりやすく思い悩むような人ではない、と私は勝手に思っていた。彼女は続ける。

「私ね、時々考えるんだ。本当は私が寝ている間に、誰かがその日の私をこっそり殺しちゃうの。そして、その日までの記憶を持った私のクローンみたいなものが、代わりにベッドに入れられて、朝目覚めたときの私は、私の見た目と記憶を完全に引き継いだ別人なんじゃないか、って。中学生の時に周りの子に言ったけど、みんな、詩織が哲学に目覚めた、っておもしろがるだけで、誰もまともに相手してくれなかった。でも私、本気でそう考えているの。一度、どうにかしてそれに抗おうと思って、コーヒーたくさん飲んで二徹したこともあるんだよ?でも、気が付いた時には寝ちゃってて。今の私は、それを実際に経験したと思い込んでいる別人かもしれないけど」彼女はそこまで言って、ふーっと息をついて水を飲んだ。

 彼女が言うようなことは、私もうっすらと考えたことはあった。だが、ここまで真剣に、強迫されるようには考えたことがなかった。私は、少しだけ逸らして、彼女の話に返す。

「…それとは若干違うけど、俺もたまにわからなくなる。こうして考えを巡らせている俺自身は存在しているのかもしれないけど、その俺という存在を俺自身は考えることができない。俺が俺自身のことを考えているとき、まさにそれを考えている俺は誰からも監視されていない」

「だから、その誰からも監視されていない自分を考えようと、新たな自分を出現させると、今度はその新たな自分を監視する自分が必要になる、でしょ?」詩織は私の目をまっすぐ見つめながら、私のあとに続けて言った。

 私の考えが、彼女の掌で弄ばれているような感覚。それが、酒を飲んだ時に感じる酔いに似た、淡い痺れを私の脳にもたらせた。詩織に、もっと溺れたい。酔いが回り、気分をよくして更にお酒を求めるように、私は彼女の綺麗な黒目に見惚れていた。

「ねえ、今の私が別の人になっちゃう前に、絶対的な経験をちょうだい?」詩織はそのまま私と目を合わせながら、ゆっくりと顔を近づけてきた。こつん、と詩織の被っていたキャップのつばが私のおでこにあたり、二人は思わず笑ってしまった。

「もう、せっかくいい雰囲気だったのに」と口元に手をあてて笑う詩織の手を私は掴み、もう片方の手でキャップをずらして、不意にキスをした。

「タバコ臭い」口を話した後、詩織はそう言ってまた笑った。初めて飲んだというお酒のせいで、彼女の目は充血していて、澄んだ潤いを纏っていた。

「先にキスしたの、そっちだからね」詩織は私の口に人差し指をあて、その上からさらにキスをした。

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