夢幻のワスプ
壬生 葵
プロローグ
忍び寄る羽音
数日前、嫌な夢を見た。見知らぬ女から「不幸の味に憑りつかれている」と、妙な忠告を受ける夢だ。
さるホテルの一室、俺は血のように赤い、いや、違うな。血はこのワインのように美しい色をしていない。この癒しの聖水を、粘着質でおぞましい液体なぞに例えるなどできようか。
グラスを呷り、一息吐く。そうは言ったものの、俺がこうして良い暮らしができているのは、安易な宣伝文句に食いつく馬鹿共のおかげだ。つまりこのワインは他人の財を骨の髄まで吸い尽くした結果、得た物である。客の血肉を飲んでいるようなものとすれば、あながち間違いではないのかもしれない。
人間は浅ましく、そして愚かな生き物だ。短絡的に楽を求め、不安から逃れる為に目の前の利に釣られる。そこにつけ込んで甘い言葉で誘惑してやれば、ほいほい金銭を差し出す。自分が騙されていると知らずにな。そのおかげでこうして楽な生活をさせてもらって、実にありがたいことだ。
「ただの水をありがたがるなんてな。ほんと、馬鹿共の思考は理解できないぜ」
二杯目を注ぎながらほくそ笑む。さて、次は何で儲けてやろうか。知り合いがSNSで「現金をプレゼントする」と謳った架空懸賞で上手く儲けたらしいが……。あれも一時は質の良いカモリストを作れたが、最近は手口が知れ渡ってきてあまり芳しくないだろう。となると転売の元締めか、それともオンラインサロンでも開いてみるか? いや、それももう波に乗り遅れているな……。
「うーむ……」
革張りのソファーに身を沈めて、思案している内に眠気が起こってくる。酩酊が心地よいまどろみを誘発し、俺の視界は闇に包まれる。
「くすっ」と女の笑い声が聞こえた気がした。
「ん……?」
どれくらいの時間、寝入っていただろうか。暗い部屋の中で、俺はテーブルに置かれたデジタル時計に目をやる。時間を確認した所で、部屋の明かりを消した覚えがないことに気付いた。
――おやすみの所、ごめんなさいね。
何者かに声を掛けられてピクリと身が強張る。施錠していたし、部屋には俺一人だったはずだ。
首をもたげた視線の先、すらっとした体つきの女が佇んでいた。暗い部屋の中では顔つきまではわからない。
「あん? 何だ? どうやってここにはいった?」
「覚えていないの? ついこないだ言ったでしょう? 『一度目は忠告』って」
聞き覚えのある声だった。瞬間的に数日前に見た夢の記憶が蘇る。
「あの夢の……ということはこれは夢なのか?」
「お察しが良いことで。さて、さっさと済ませるとしましょうか」
女は家事でも済ませるかのように軽やかに受け答え、こちらにするりするりと近付いてきた。
「ま、待て! これは本当に……いや、それよりあんたは何者なんだ?」
これが夢だとするならば、あの女は俺の深層心理を表す何かに違いない。そう、夢であるならば。
「私は私よ。好きに呼んでくれて良いわ。って言っても貴方はもう死ぬけどね」
答えにならない返答をされ、俺は当惑する。それに――。
「死ぬ……死ぬだって? 死んだってこれは夢なんだろ? だったら目覚めるだけじゃないか」
「そう思いたいならそう思いなさい。私も抵抗されるよりはあっさり逝ってくれた方が助かるし」
女は心底面倒くさそうに言葉を返した。仰々しく脅かされるよりも、その方がかえって真に迫る。「まさか本当に」という考えが脳裏によぎる。
「もし、もしこれで死ぬというのなら、どうして俺が死ななければならない?」
「前にも言ったでしょう? 『不幸の味に憑りつかれている』って。貴方、かなり人の恨みを買っているのよ。自分でも思い当たることは多いんじゃないかしら?」
そんなの重々わかりきっている。それがどうしたというのだ。他人に不幸をもたらし、恨みによって呪い殺されるというのなら、俺なんかよりも死ぬべき人間はごまんといる。となると、この女は脳内で自己批判と理論武装をさせる為に生まれた俺自身なのだ。タネがわかればこんなバカバカしい夢はない。
「ははは! 恨みか! 自責の念なぞ、これっぽちも感じていやしないつもりだったが、俺の深層心理はそうではなかったのか。殺される夢まで見るとはな。それに女に殺されたいってのは欲求不満ってことか? たしかに最近、忙しくてシてなかったからな。はははははは!」
俺も焼きが回ったものだ。飲酒して眠るから睡眠が浅くてこんな夢まで見るのだ。さっさと覚めろ覚めろと睡眠中であろう現実の己に呼び掛ける……が、一向に夢が終わる気配がない。
「私のことを自分の心理を表す何かと思っているのね。この仕事をしていると、そう考える人多いのよね……。ま、面倒だし、説明しなくて良いか」
女が一歩一歩こちらに歩み寄る。夢だと認識しているものの、言いようのない恐怖感にさいなまれて焦りが生じる。体を動かそうとしてもぴくりとも動かない。ちくしょう、夢の中で金縛りかよ。おいおいまさか本当に死ぬのか?
言葉を発そうにも胸につっかえができたかのように息苦しく、喉からは声にならぬ息遣いだけが虚しく漏れるだけであった。女とはもう目と鼻の先にまでなり、甘い髪の香りが鼻腔をくすぐる。
こんな状況にも関わらず、「美しい」と目を瞠ってしまった。プロアマ問わず美人は数多く抱いてきたが、そのいずれも敵わないだろう。恐ろしさを抱くほどに妖艶であった。
金縛りに身じろぐ俺の耳元で女が囁く。
「全ては女王の御心のままに」
冷たく艶のある声色に思考を溶かされる。手にチクリとした痛みが走った刹那、ふわりとした快楽が全身に走る。
そこで俺は――。
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