第173話 投げたくない④

「ねえ、千早。ちょっと試してほしいことがあるんだけど」


華菜が千早に耳打ちをする。


「どうしたの?」


「ミレーヌの球当てられる?」


「当てようとは頑張ってるんだけど、難しくて……」


ここまで2打席連続で全くタイミングがあわずに三振している千早が自信なさげに俯いた。


「綺麗なスイングをしなくてもいい。もう送りバントするつもりで軽く当てるだけで良いから。それならできるでしょ?」


「実戦でバントしたことないから不安だけど、あの子の球遅いからバントならなんとかできるかも……」


「キャッチャーの若狭さんが処理しない場所にバントしてくれたらそれでいいわ」


「咲希ちゃんが塁に出なくてもバントするの?」


「うん。ランナーに関係なく、塁に誰もいなくてもしてほしいの。セーフティーバントみたいに意表を突く必要もない。最初からバットに当てることだけを考えて構えておいてくれたらいい。それで、バットに当たった瞬間短距離走のつもりで、全力で1塁ベースに向かって駆け抜けて欲しい。いけるわね?」


「ランナー無しでバントしてもアウトが増えちゃうだけじゃないの?」


「点差は3点あるし、千早の足がとんでもなく速いことは、まだ皐月女子も知らない思うから、極端な前進守備は取ってこないと思うわ。だから強肩の若狭さんの前以外ならセーフになると思うの」


野球経験のあるメンバーはすでに情報を把握されている可能性はあるが、おそらくまだ千早については何の情報も把握されていないはずだ。


華菜の説明を聞いて、千早は納得したように親指を立ててグッドサインを作った。


「なるほどね、そういうことなら任せて! ミレーヌちゃんバント崩し作戦だね!」


千早がネクストバッターズサークルへと向かって行き、華菜も打席に立つ準備をする。


千早には当然成功前提のつもりで指示を出したが、正直なところ千早の足が速いといっても、初めからわかり切ったバントで1塁にセーフになることはかなり難しいということは華菜も十分わかっている。


だけど、セーフティーバントは今の千早の実力では難易度が高すぎる。そしてここまでの千早の2打席を見るに、正直まったくボールに当たる気がしない。だからこれは、そんな中で試せる数少ない作戦なのだ。


そんなことを考えているうちに、ありがたいことに咲希はフォアボールを選んでくれた。


ここまで好投を続けているミレーヌだけど、小柄な体全体を使って投げる投球フォームは間違いなく体力を消耗しているし、疲れが見えてきているのかもしれない。


もしくは、咲希は何を考えているのかよくわからないポーカーフェイスだから、勝手に若狭美江が深読みしてくれたのかもしれない。


いずれにしても大事なランナーが出た。1アウト1塁で千早の打席。


差は3点だけど、とにかく咲希と千早の2人が塁に出てくれれば、華菜がライト方向に長打を打てば、千早の足なら余裕で帰ってこられるだろう。


逆転するためにはとにかく1人でも多く塁に出なければならない。そのためには千早にはなんとしても“ミレーヌちゃんバント崩し作戦”を成功してもらわなければならないのである。

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