第116話 由里香と桜子⑤
桜子が考えていると、由里香はベンチから立ち上がり座っている桜子の真正面に立った。
「私は桜子と一緒に野球がしたいし、桜子に私の球を受け取ってほしい。もし桜子が良いんだったら、私と一緒に野球部に入ってほしいの!」
由里香はそのまま桜子の目の前に手を差し伸べる。だけど桜子はその手をすぐには取れなかった。
「私じゃ由里香とは釣り合いませんので」
普通の部活動レベルでソフトボールのキャッチャーをやっていただけの桜子と、男子に混ざって強豪チームで投手をしていた由里香で釣り合うわけがない。
桜子は寂しそうに俯いた。
「桜子と私が釣り合うとか釣り合わないとかはどうでもいいのよ。私が聞いてるのは、あなたが私と一緒にバッテリーを組んでくれる意思があるかどうかよ。桜子が勝手に遠慮して入らなかったとしても、今の野球部に私の球を捕れる子は多分いないんだから、一人でネットに向かって投げるくらいしかできないじゃないの」
「それは、もちろん一緒に組みたいです。でも私が由里香の足を引っ張ってしまうのは本意ではないです」
桜子の返答を聞いて由里香が大きなため息をついた。
「あなた以上に私と息の合う人がどこにいるのよ? そもそもキャッチャーの能力で考えても、あなた以上に経験ある人うちの学校にはいないんじゃない?」
「だけど私はあくまでもソフトボールで――」
「あー、もうめんどくさい!」
由里香は桜子に差し伸べていた手で、無理やり桜子の腕を引っ張って立ち上がらせた。
「ちょっと!」
桜子は驚いた。由里香が呼吸が触れるくらい顔を近づけてくるから、心臓の鼓動音が外に聞こえそうなくらい大きくなる。
「最後にもう1度だけ聞くわ。あなたは私と一緒にバッテリーを組みたいの? 組みたくないの? 実力とかはもうどうでもいいから桜子の希望だけを聞かせてくれない?」
「それは……」
「わかった、桜子が組んでくれないなら私野球部に入るのやめるわ!」
「え?」
このままでは、せっかく前を向いている由里香を止めてしまうことになってしまう。由里香が一番輝ける場所へと戻ろうとしているのに、それを止めてしまうことは桜子の本意ではない。
「やめるなんてダメに決まってます! 私は今でも由里香と一緒にバッテリーを組みたい気持ちは変わりません! ……私も、野球部に入ります!」
桜子の真剣な顔を見て由里香が安堵のため息を吐いた。
「よかった。組んでくれないって言われたらどうしようかと思ったわ」
そして続けて由里香がからかうように笑った。
「でも、これで入部の理由は桜子になったわよ? あなたが私の正妻になってくれるから、私は野球部入部を決めたことになったわね」
正妻という意味が、キャッチャーという意味を指して言ったことはわかっているけど、桜子の顔は湯気でも出てしまいそうなくらい紅潮してしまった。
今が顔色の分かりづらい夜でよかった、と桜子は心底思った。
「まったく、小峰華菜……さんにどういう顔して会ったらいいのでしょうかね」
桜子は苦笑した。散々野球部の設立の際に華菜の邪魔をして、由里香と関わるなといったのに一緒に野球部に入るだなんて言ったらきっといい気分はしないだろう。桜子の新しい門出はまず華菜に謝ってからになりそうだ。
だけど、これで由里香と一緒にバッテリーを組めるのだと思うとそれは些細なことなのかもしれない。
桜子は久しぶりに胸をときめかせて、少しでも長く由里香に手を握っていてもらえるように握られた手に力を入れる。由里香が苦笑いをしながらも強く握り返してくれた。
夜空の月は変わらず2人を照らし続けてくれていた。
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