背中


「さて、そろそろ戻ろうか。大和くんも疲れたでしょ」

 洛陽がそう言って大きな伸びをした。

「また機会があれば気軽に······」

 意気揚々と声を上げた洛陽だったがそれは直ぐに風に潰えた。彼は急にきょとんとすると大和の後ろをじっと見つめている。

 大和は顔に疑問を浮かべて洛陽の視線を追いかける。そこにあったのは大きな橋だ。中橋と呼ばれる橋だった。後々場所が移るのだが、この時の中橋は道術坊と恵訓坊の北方にあり、都を東西に走る洛水の中央付近にかかっていた。

 周りには多くの商人が店を構えており、人通りは多い。そんなガヤガヤとした喧騒の中に大和は見知った顔を見つけた。

「あの人って大和くんとこの大使じゃないの?」

 洛陽がポツリと言った。大和もそれに頷く。そこにいたのは、確かに倭国の遣隋大使・小野妹子であった。彼はこちらに気づく様子なく、中橋を南から北へと渡っていく。

「なんやあいつ。仕事でもあるんか?」

 洛水の北側には宮殿や重臣の屋敷がある。大和が眉を寄せると、洛陽が「ああ」と息を吐いた。

「きっと蘇威殿から呼び出されたんだよ」

「そい?」

「うん。今の主上の側近だよ」

 洛陽は大和に手を差し伸べながら言った。

「とても腕のいい人でね。去年誅殺事件に連座されて朝廷を離れたんだけど、すぐに許されて復帰したんだ。先帝の時代から変わらない重臣だよ。今も他の側近たちと一緒にまつりごとをしてる」

「そんな偉い方が何で妹子を?」

 大和は洛陽の手をとって立ち上がった。人混みに消えゆく妹子の背中を見つめていると、どこか心配になってくる。何か不手際でもしたのだろうか。もしやあの国書についてのお叱りか。それで処刑などされたらひとたまりもない。

「大丈夫。別に怒られに行くわけじゃないよ」

 顔から不安を読み取ったのか、洛陽が呑気な声で言う。彼は大和を促すとゆっくり帰路を歩み始めた。

「詳しくは言えないけどね、蘇威さんが彼に会ってみたいって言うんだ。いや、蘇威さんだけじゃない。今朝廷を動かしている側近の人達が、皆一様にあの大使に興味を持ってる」

「側近の方々が······?」

「そう、例えば裴矩はいくさんや虞世基ぐせいきさん。裴矩さんはあの謁見の場にもいた人だよ。軍事面にも優れてるんだけどね、僕は彼のふわふわした髪好きなんだあ。あと虞世基さんは書に優れててね。早筆なのに字が綺麗で、あと凄く愛嬌があるから親しみやすいんだよ」

 洛陽はにこにこと足を進める。まるで友達を語るかのような口調だった。そんな飄々とした様子に大和は少し拍子抜けしてしまう。

 何だか土地と人との距離が分からない。単にこの人が気さくなだけなのだろうか。大和はうーんと眉を寄せる。結局自分はどう生きてゆけばいいのだ。今まで通り、人間に身を委ねて過ごせば良いのだろうか。

 中橋のたもとへ行けば、あちこちから威勢の良い商人たちの声が聞こえてきた。引き寄せられる客人の中には、異国の者も混じっているらしい。やけに鼻の高い長身の男や、海のように青い目をした男が品定めをしている。大和はその姿に釘付けになったが、洛陽は至って気にする素振りを見せない。これがこの国の日常なのだろう。

 人の波にのまれぬよう洛陽に引っ付くと、チラリと中橋の方に視線を流した。そこに妹子の姿はない。既に向こう岸に渡ってしまったらしい。

 ──あなた方土地は我々人間の政治に口出しできるのか否か。

 再び妹子の言葉が脳裏を過った。それと同時に意味ありげな彼の微笑が蘇る。せめて、せめてここだけでも聞いておかねば。

 商人たちの喧騒を抜け、穏やかな通りへ出る。前にいた洛陽も足を緩め、大和の歩みに合わせてくれた。

「あ、あの、洛陽さん」

 小さな声に洛陽が足を止める。横を見下ろせば、こちらを見つめる大和の瞳があった。

「一つだけ聞きたいことがあります」

 声音は弱々しいが、目の光は真っ直ぐだった。洛陽はそれを受け止めると「なあに?」と言ってしゃがみ込む。二人の視線がぴたりと重なった。

 そこで大和は口を開いた。心に残ったわだかまりを真っ直ぐ洛陽にぶつける。彼は疑問を受け止めると、柔らかな瞳を優しく細め、楽しそうな声音で微笑んだ。

「じゃあ、一つだけ教えようかな。僕達が守るべき掟の一つを······」















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