ぬらり

灯花

第1話 その男、認識不可能につき

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


目の前には一人の男───否、男だった肉塊が転がっている。


「このあと、どうしよ……」


「こんばんは」


突如聞こえるはずのない声が聞こえた。


「……っ?!」


振り向けば、そこに立っていたのは頭の先からつま先まで全身を黒で固めた和装の男だった。齢のほど、三十路か、いやそれよりも幾分か若いかもしれない。


「な、な……」


「どうされました?」


驚きと恐怖から意味をなさぬ悲鳴を漏らす男とは対照的に、和装はにっこりと笑いながら男のもとへ歩み寄ってくる。月明かりに青白く照らされた顔立ちは端正で、その妖しい美麗さがより一層状況の非現実さを際立たせていた。


「ここに……ここに人が来るはずがないんだ……なのにお前は……一体、どうやって……?」


冷たい汗が伝う喉を必死に動かし、やっとのことで男はそう尋ねた。


「どう、と言われましても、あなたの後ろをついてきただけですよ?」


美しい笑みをたたえたまま和装はこともなげに答えた。


「馬鹿な!何度も尾行されていないか確認したんだ!そんなはずは……」

男は狼狽を隠し得ない。ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる和装から少しでも距離を取ろうと、じりじりと後退する。


「あぁ、私のことをご存知ないのですか」

ぱたりと歩みを止めて、ようやく合点がいったというように一つ頷いた。


「私の能力は───」


突然、和装の姿が消えた。


「え……?」


思わず背後を確認した男の目に、和装の顔が映った。二人の距離は一メートルもない。


いつ……近づいた?


「私の能力は、“相手の認識能力に干渉する”能力です」


次の瞬間、男は宙を舞ったような錯覚に陥った。事実、男は宙を舞っていた。ただし、首から上のみ。


「悪く思わないでくださいね。これも仕事なので」


和装の腰から放たれた斬撃は刹那のうちに男の頭を跳ねたのだった。





かすんでいく思考の中で、男は一人の暗殺者の話を思い出していた。

相手に気づかれることなく接近し、ターゲットは殺された瞬間に初めて殺されたことと暗殺者の存在に気づくのだという。確か、その暗殺者の名は……


「ぬらり、と申します。以後お見知りおきを。といっても、次お会いするとしたら来世でしょうが」


美しい容姿にたがわぬ優雅な身のこなしで刀を鞘に納め、一礼する和装───もとい、ぬらり。


「今宵は月が美しい」


陶磁器のように白い頬にとんだ鮮血の飛沫が、重力に従って伝う。


和装の美男子と、二つの死体とを妖艶に照らす宵の月は、どこまでも高く、どこまでも冷たい色をしていた。

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