第2話 八王子先輩と私の馴れ初め

 ――八王子はちおうじ先輩の話によると、昨日こんなことがあったそうだ。


「八王子先輩、落としましたよ」

 振り向くと、あまり面識のない、たまに会えば挨拶する程度の関係の女性社員が、八王子先輩のハンカチを拾って差し出してきたという。それが私――村崎むらさき薫子かおるこである。

「ありがとう」

 感謝の笑みを浮かべながらハンカチを受け取ると、ふわっと今まで感じなかった匂いがしたという。

 優しくて、甘くて、どこか懐かしい匂い。

 最初は香水の匂いかと思ったが、匂いフェチの先輩が集めてきたどんな香水にもない、それでいて引力のように惹かれる匂い。

 それが私から発せられていることに、先輩はすぐ気づいた。

 私が去った後、ハンカチを鼻に当てて、大きく息を吸う。匂いがうつっている、しかし薄くて儚い。たとえ洗濯をしなくても次の日には残っていないような朧げな匂いだった。

 ――この匂いの元が、ほしい。手に入れたい。

 その日のうちに私は八王子先輩に飲みに誘われ、あれよあれよとホテルに連れ込まれたという顛末てんまつであった。


「最低ですね」

 先輩の話の一部始終を聞いた私の率直な感想である。

「薫子さんも俺の声が好きなんだからウィンウィンの関係でしょ?」

 そりゃ、私は声フェチだけれども。

「ナチュラルに呼び名変えるのやめてくださいます?」

「だって、俺たちもう恋人同士でしょ?」

 やることやったし、と八王子先輩はあっけらかんと言い放つ。

「同意のない恋人関係ってどうかと思いますけど」

「え? でも薫子さん、『八王子先輩、好き、好きぃ……っ』て言ってたよ」

「だからそれは酔った勢いでしょーッ!?」

 私の台詞を再現するのはやめろォ!

「俺のことも『秀一しゅういち』でいいからね」

「絶対呼びません」

 第二ラウンドを終えてもう帰りたい私はベッドの周りに散らばった下着や着ていた洋服をかき集めて昨日の状態になんとか戻れた。八王子先輩も流石に今は服を着ている。

「じゃ、また明日、会社でね」

 ホテルを出て別れたあと、先輩はルンルンとした足取りで去っていった。あの人、私を酔い潰してホテルに連れ込んだあと、あんな上機嫌で罪の意識を何も感じてないのサイコパスなのでは?

『営業部の王子様』があんなんとは恐れ入った……。

 ……私も帰ろう。

 明日から先輩と顔合わせるの嫌だなぁと思いながら、私は帰路に着いた。


〈続く〉

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