第拾弐話【 九十九の記憶 】
ミーアが風呂場を去った後、しばらくしてから、
灰夢は風呂を上がり、自分の部屋へと帰っていた。
「ふぅ、さっぱりし……ん?」
一切警戒することなく、店の扉を開けた灰夢の目に、
予想だにしていなかった、老夫婦の光景が映り込む。
「うふふ……。逃がしませんよ、梟月さんっ!」
「飲みすぎだぞ、霊凪。どうしたんだ……」
「百戦錬磨の私でも、こういうことには勇気がいるんです」
顔を赤く染めた霊凪が、ポッキーを咥えたまま、
フラフラとした足取りで、梟月を追い込んでいく。
「いつもの霊凪は、どこに行ったんだ?」
「何を言ってるの、あなたの霊凪はここにいるわよっ!」
「落ち着きなさい。そういうのは、寝室で……」
「今は子供たちも居ないから大丈夫よ、あなた……」
「……か、顔が怖いぞ? 霊凪……」
「うふふ……。気のせいですよ、梟月さんっ!」
「──ちょ、待ちなさいっ! うわああぁあああっ!」
何も考えることなく、静かに店の扉を閉めると、
灰夢は方向を変え、外へと散歩に行くことにした。
( ……見なかったことにしよう )
一人で祠を出た灰夢が、人気のない河原で風に当たる。
『何をしておるんじゃ? ご主人……』
『……ん?』
そう頭の中に声が響くと、影の中から九十九が出てきた。
「いや、ちょっと風に当たろうかと……」
「おなごたちの匂いにでもやられたのか?」
「それはもう、参るなんてもんじゃねぇよ」
「全く、これ程までに愛される男も珍しいわぃ……」
「はぁ……。恐ろしすぎんだろ、ポッキ〇の日……」
「何じゃったら、わらわのポ〇キーも食べてくれても良いぞ?」
九十九がポッ〇ーを咥えたまま、灰夢の顔を見つめる。
「…………」
「…………」
灰夢はそれを見ると、灰夢は何一つ言葉を発さずに、
無言で九十九の肩を、ガッと逃がさないように掴んだ。
( ……へっ? )
灰夢が躊躇することなく、九十九のポッ〇ーを咥え、
そのままボリボリと、端から少しずつ食べ進めていく。
「ご主人、少し抵抗は……」
「…………」
「ご、ごごご、ごご、ご主人……っ!? はな、離しておくれ……」
「…………」
「は、ははは、……離せと言うておろうにッ!!」
「グフッ……」
だんだんと迫ってくる灰夢を見て、焦った九十九は、
自ら〇ッキーを折り、灰夢に全力のアッパーをかました。
「ちょ、ちょちょタンマじゃ、タンマっ!」
「なんだよ、食えっつったのお前だろ?」
「いや、抵抗が無さすぎじゃろッ!! 何があったんじゃ……」
「丸一日ポッ〇ー食わされ過ぎて、もう何も感じねぇよ」
「はぁ、これは重症じゃな……。ご主人が壊れてきておるわぃ……」
希望を失った瞳をしながら、灰夢が川の流れを見つめる。
「壊れてるのは俺じゃなく、この世界だ……」
「たかだかポッ〇ーぐらいで、大袈裟が過ぎるじゃろ」
「この星に生まれて数百年。俺は今、初めて挫けかけている」
「まぁまぁ、それも今日だけじゃよ」
「早く終わらねぇかなぁ、ポッキーの日……」
「切実じゃのぉ、全く……」
二人は川を見つめながら、静かにポッ〇ーを食べていた。
「最近は、ご主人も外に出ることが多くなったのぉ……」
「……そうだな」
「それも、子供たちによる変化なんじゃろうな」
「かもな。いくつになっても、心は変わるもんらしい」
小さく微笑む灰夢の横顔を、九十九がじーっと見つめる。
「いい顔つきじゃな、ご主人……」
「……そうか?」
「うむ、色男に磨きがかかっておる」
「老骨相手に、何を言ってんだ……」
「老骨を褒めるのは、老骨の務めじゃよ」
「悲し過ぎるだろ、色気の欠片もねぇな」
「ははっ……。じゃがまぁ、これが大人の余裕というものじゃ……」
「その見た目で言われても、説得力ねぇけどな」
「たわけ、人のことを言えた口か?」
「まぁ、それもそうか」
くだらない掛け合いをしながら、二人は笑っていた。
「新たな世界を見て、ご主人はどうじゃった?」
「なんだよ、急に……」
「まぁまぁ……」
「新たな世界ってのは、ミーアの国のことか?」
「……うむ」
「そうだなぁ……。まぁ、俺にもまだまだ、知らねぇ世界はあるんだなって思った」
「……そうか」
「あぁ……」
灰夢の素直な感想に、九十九がボソッと小さな声で答える。
「わらわは、楽しかったぞ……」
「……九十九?」
川を見つめ続ける九十九の横顔を、灰夢は静かに見つめていた。
「今までの主では、こんな楽しいと思うこともなかった」
「…………」
「ご主人と出会ってからは、わらわは初めてのことばかりじゃ……」
「…………」
「そんな新鮮な毎日が、わらわは楽しくてたまらぬ」
「……九十九」
「ありがとうな、ご主人……」
「ふっ……。なんだか、らしくねぇな……」
「まぁ、たまにはのぉ……」
笑顔で振り向く九十九に、灰夢がそっと笑みを返す。
「俺が一人だった頃は死術のことだけで、楽しみなんて考えもしなかったが……」
「……ぬ?」
「今回の旅で、『 たまにはこういうのも悪くねぇな 』って思ったんだ」
「……ご主人」
「だから、まぁ……。その、なんだ……」
「……?」
九十九がキョトンと見つめていると、灰夢がそっと頭に手を置いた。
「いつもありがとな、九十九……」
「なっ、なんじゃ。突然……」
「まぁ、なんとなくな」
九十九は照れくささを隠すように、俯きながら顔を赤く染めた。
「ほんとに、おかしなご主人じゃな」
「……そうか?」
「わらわは、これでも妖刀なんじゃぞ?」
「この世界には、
「わらわは、『 神 』ではなく『 鬼 』なんじゃが……」
「物に魂が宿ってんなら、似たようなもんだろ」
「何でも同じにせんでおくれ、ご主人……」
平然と鬼を受け入れる灰夢に、九十九が呆れながら答える。
「神も妖怪も悪魔も精霊も、呪霊も幽霊も忌能力者も、みんな同じだ……」
「…………」
「いかなるものも心があれば、善にも悪にもなるってこったな」
「心ある者、全てに対話を試みる所が、ご主人らしいのぉ……」
二人はそんなことを言いながら、夜の星空を眺めていた。
「そういや、クラーラの話を聞いた時に、ふと思ったんだけどよ」
「……ん?」
「九十九って、生まれた時から妖刀なのか?」
「…………」
そんな灰夢の何気ない疑問に、九十九が言葉を詰まらせる。
「ご主人なら、よいじゃろう……」
「……?」
九十九は静かに呟くと、灰夢に自分の過去を語り出した──
「 わらわには、昔の記憶が無いんじゃよ 」
その言葉に、灰夢が大きく目を見開く。
「気がついた時には、この形になって封印されておった。
自分がどこで生まれたのか、何故、刀に入っておるのか。
どこの誰に作られたのか、何故、この刀が依代なのか。
疑問は多くあったが、結局、分からずじまいじゃった。
──分かるのは己の名と、妖刀の名と力だけ。
そこから多くの人間に、取っかえ引っ変え使われ、
最後には、捨てられるだけの日々が続いておった。
じゃから、これがわらわの宿命なんじゃと思った。
きっと、いつの日か、この身が朽ち果てる時まで、
この日々が変わることなく、続いていくのじゃと。
そんな日々を変えてくれたのが、ご主人なんじゃ。
ご主人は、初めて毛嫌う素振りを見せぬ人じゃった。
じゃから、他の誰でもなく、ご主人に尽くすんじゃ。
心から、ご主人の傍におりたいと想うようになった。
記憶が無かろうと、これだけはわかる──」
「 きっと今が、今までで一番、幸せなんじゃろうと── 」
「 そなたの傍におり、共に世界を巡って行けるなら、
これ以上に幸せなことは、きっと無いじゃろうよ。
妖刀と心を通わせ、わらわの想いを聞いてくれる。
そんな優しいご主人は、簡単には出会えんからの 」
そう語り終えると、九十九は幸せそうに笑っていた。
「……そうか」
「……うむ」
嬉しそうに微笑む九十九の瞳から、一筋の雫が落ちる。
そんな九十九の涙を優しく拭うと、灰夢は質問を続けた。
「お前は記憶、その探したいと思うか?」
「どうじゃろうな。知らない方が良いこともあるじゃろう」
「なら、刀と別れられるとしたら、そうしたいか?」
「存在理由が無くなるのなら、今のままでも良い……」
九十九が何かを恐れるように、身体を震わせる。
「……そうか」
「……うむ」
そんな九十九を見た灰夢は、優しく抱き上げると、
自分の膝の上に乗せ、そのまま優しく語り掛けた。
「……ご、ご主人?」
「あのな、九十九……。これだけは覚えとけ……」
「……?」
『 お前が妖刀じゃ無くなっても、俺は捨てたりしねぇから…… 』
『 例え、刀が無くなっても、鬼の力が失われても、
いかに姿が変わろうと、お前は大切な俺の家族だ 』
『 俺の家族は、妖刀でも鬼でもない。
『 それだけは、忘れんな 』
そんな灰夢の真っ直ぐな言葉に、九十九の目から涙が溢れる。
「はぁ、全く……。ズルいのぉ、ご主人は……」
「俺、何かおかしなこと言ったか?」
「あれだけモテておるのに、わらわまで虜にするつもりか?」
「おいおい、俺は家族の絆の話をしてんだぞ?」
「乙女に『 お前は俺の家族だ 』なんて告げたら、反則じゃろ」
「俺の言い方が悪いのか? なら、なんて言えば正しいんだ?」
「ふふっ……。まぁ、この方が、ご主人らしいか……」
困惑する灰夢を見ながら、九十九は静かに笑っていた。
( どうか、こんな老いぼれの、哀れな願いが叶うのなら、
九十九は一人、夜空に輝く星に願いを捧げながら、
不意に後ろを振り向くと、灰夢の頬に口付けをした。
「──つ、九十九!? お前……」
「それでこそ、ご主人らしい反応じゃよ」
「はぁ……。ったく、今日は本当にすげぇ一日だな」
「幸せ者じゃな、ご主人……」
「ポ〇キーの恩恵が、俺の中で一番半端ねぇよ」
「まぁそれも、ここまでじゃよ」
「……ん?」
「日付、変更じゃ……」
膝の上に座る九十九が、近くの公園に立つ時計塔を指さし、
それを見た灰夢が、深夜零時を超えていることを確認する。
「かぁ〜っ! 生き残ったァ〜っ!」
「なんじゃ? その感想。……おかしいじゃろ」
「あのなぁ、なかなかメンタル来るんだぞ?」
「おほほ、不死身も心は耐えられんのじゃな」
「あぁ、これに関しちゃなかなか慣れねぇよ」
「まだクリスマスも、バレンタインもあるというのに……」
「それはあれだ、『 季節は過ぎ、春を迎え…… 』っつぅ最強のフレーズが……」
「……いや、それはダメじゃろ」
「……ダメか?」
「……ダメじゃろ」
「はぁ、ったく……。老骨には、しんどい世の中だな」
「折れるで無かれ、我が主様よ……」
「……へいへい」
灰夢は九十九と共に、その場から立ち上がると、
星の照らす帰り道を、二人で帰っていくのだった。
「そういや九十九、一ついいか?」
「……なんじゃ? ご主人……」
「お前『 裸の付き合い 』って言葉を、ミーアに教えただろ」
「な、なな、なんのことじゃろうなぁ……」
「ミーアが『 お前から聞いた 』って、言ってたんだが……」
「──なんとっ!? 乙女の秘密じゃとあれほど……」
「まっ、嘘だけどな」
「…………」
「…………」
「……えっ?」
「そうかぁ、テメェが余計な入れ知恵しやがったのかぁ……」
「……ズ、ズルいぞ、ご主人っ! なんと姑息なっ!」
「どの口で言ってんだ、ゴラァッ!!!」
「はにゃああぁあぁぁぁああぁぁぁぁあぁぁあぁぁぁあっ!!!」
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