おもいで

文綴りのどぜう

重い瞼

少しでも側にいられたら、あの時はそれだけで良かったんだろう...



3ヶ月前に降り始めた雨は未だ止まず、口先に貼り付いた触角も湿った頬も、豊富に水分を湛えた大気が満ち満ちている事の証左として在った。私はこの先もきっと濡れながら歩いていかなければならないのだろう、そんな淡い不安に似た曇天が心に在った。

私の棲む家はけして広く大きなものではなかったが、それでも貧しい者が辿り着けない水準の生活を可能にしている、高機能な二階建てであった。吹き抜けに茂ったランも枯れ、朽ち葉や腐葉土の後始末に負われる家政婦が行き来している以外は静かな居住の地。高校三年生の時父親に渡されたスマートフォンをうっかりこの吹き抜けから落としてしまい、がちゃ、がちゃ、ごとんとそれは大きな音を立てて床にまで痕を残したことを、階段を登って見下ろす度に思い出す。あれからもう6年経った。大学は馴染めずすぐ辞めて、父親の職場の事務に1つ空いた席があるというので座り込んだ。それが一昨年の事。母はいない。いつからいないかも知らないが、とにかくこの家には不在である。何年も前から。


「そろそろ、振袖の試着にでも行った方がいいのかな?」

「なに言ってんの父さん、それもう何年前のことよ」

「おや、そうだったか、大きくなったねぇ、暦美」

「いや、アタシは真琴。だれコヨミって」

「あぁ、いや、それはまた次のお話だった」


こんな会話を今した。まるで繋がりのない、点々とした記憶を頼りにこの耄碌は喋っている。相手をするのはもう慣れたが、最初のうちこそ疲れたものだった。飯を食えば空腹を訴え、庭に出て盆栽を矯めれば枝を落とした無礼は誰ぞと喚く。医者に罹ってもどうせ「認知症デスネ」とあしらわれて適当な薬が何錠か投げられるだけだろう。父は私を頑張って育ててくれたみたいで、その疲れのせいかボケ始めた。誰にも相手をされずに、私の為に身を粉にした父は、今でこそ脳機能の終焉を感じさせるが聡明な男だったのだ。実の子である私から見ても、たいへん良くできた秀才な人物であった。それがどうだ。一夜にして宝くじで財を築いたあとはあれよあれよと衰退し、私の左の顬を凝視しながら話すようになってしまった。全く難儀なものだなと、まるで他人事のように私は思った。勢いに任せて雇った家政婦達も、初め高給に目が眩みこそしていたが、私が管理しなければ汚い事を考える連中ばかりで、「白痴だ」「あれはカモだ」と金庫ばかり舐めている。おかげで勉学どころではなくなった、というのも大学を辞めた一因である。これは後付けの理由である。

その父が、白痴で元聡明で金持ちで豊かな心を持った父が、死んだ。

私が台所で支度をしていた時、枯れたランの葉の隙間からずどん、と大きな麻の袋が落ちるような音が聞こえてきた。しかしそのずどんは、複雑な構造の固体がぶつかり折れる、冬の枝に似た乾いた烈音と混ざりあってもいた。急いで手を拭き駆けつけると、吹き抜けの底は血で満ち、父が転がっていた。そこから先少しの記憶がない。次の記憶では、もう私と父が2人きり、霊安室にて対峙していた。あの暗がりで私が何を思案したかは定かではないが、少なくとも父のことを想っていただろう。白痴な父はしかし、私と会話する時だけ一層の笑顔を振りまいていた気がした。楽しかったのだろうか、彼なりに。噛み合わない話ばかりしていたが、それでも彼はまともに私とやり取りしているつもりだったのだろうか、彼なりに。父の命は喪われたので、これ以上どう努力しても再びの会話は私達2者には生まれないがそれでも、もしもあと幾許か父が生きているなら、昨日までよりもっと会話をしただろう。取り返しのつかない事態になって初めて、父の顔は私に涙を流させた。酷い雨が、心の奥に降りしきった。

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おもいで 文綴りのどぜう @kakidojo

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