お山のもん
枯れ草の結び目に足を取られて転び、転んでたたらを踏んだその数歩先には足場がなかった。地面にぽっかりと穴があいていた。地盤沈下か、それとも獣の穴ぐらか。
赤いビニールテープをすぐ近くに立つ木の幹に目印として結びつける。ここは境界線の東側で村のもんが使う場所だがこんなところに穴があるとは知らなかった。見回りに来て穴に転落だなんて笑えない。スマホは持っているが、ここは電波が届きにくいというのに…そう思いながらコートのポケットを探るが手に何も触れない。どこかで落としたか小屋に忘れてきたか脱いだコートをばさばさ振っても小銭がちゃりちゃり鳴って周囲に埃が立つばかりでスマホは見つからない。
これはいけないと小屋に戻ろうとした時だった。
背後の草陰から何かが飛び出してきた。そこで意識が暗転した。
背中が痛い。腹が痛い。息が苦しい。暗い。目を開けても真っ暗闇だ。いつの間に夜になったのだろうか。ひどく寒い。体が息をするのを思い出したように喉が苦しくて咳が出た。
背中に硬い地面の感触があり、どうやら仰向けに転がっているようだ。青臭い草の匂い、固く踏みしめられた地面、それから鼻をつく獣臭さ。体がじっとり濡れている感覚がして体を触る。息苦しい。起き上がれない。体が上手く動かない。上半身を起こそうと腕に力を入れるが、腹に鋭い痛みが走る。意識が朦朧とする。
咄嗟に腹を押さえようと体を探ると妙な感触がある。腹から枝が生えている。腹に枝が突き刺さっていた。
ひどく焦り、心臓が早鐘を打つ。助けを求めなくては、どうにか、どうにか。身じろぎして周囲を触る。両手を突き出して周囲を探ろうとすると意外に広さがある。風が吹いている。風? 見上げると夜空が見えた。白い月が見える。月明かりでかろうじて自分の手のひらが見える。しかし周囲を照らすまでには至らず、状況が掴めない。
もしや、俺はあの穴に落ちたのか? 目を凝らして輪郭がわかるかどうかといった程度だ。ここはどこだ。どこにいるんだ。どうして俺はこんなところに、寒い。痛い。死が迫る。狂う。狂う。狂う。
ぶるる、と耳のすぐそばから獣が鼻を鳴らす音がした。
体がこわばる。まともに動かない体で、おそるおそる音の方向を探る。頭上から降り注ぐ月の光にわずかに照らされて目の前に大きな獣の輪郭が見えた。ゆっくりと近づいて来るそれに俺は目を奪われる。
それはごわごわした硬そうな毛皮に覆われた大きな獣だった。四つ足の偶蹄目で、通常ならば獣の首が生えている部分から人の胸部が、人に似た腕が生えている。複数の乳房が顕になったその上に人に似た異形の顔があった。横向きの瞳孔と目が合った。お山のもんだ、ここは人獣の巣だ。
はは、と口から乾いた笑いが漏れる。だってそうだろう、こんな大きな美しい獣が、本当にお山にいたなんて思いもしなかった。なんもかんも村のもんが信じ込んでる幻想で、人獣なんてものは街の動物園や保護区画にいるものだと思っていた。野生の人獣がこんな近くに存在していると信じてはいなかった。
大きな獣が無遠慮に俺の胸を頭で小突いてきて、その力強さに俺は硬い地面に再び転がった。人に似た人より大きな頭がふんふんと俺の匂いを嗅ぐ。食われると思った俺は咄嗟に「頼む、食べるのは俺が死んでからにしてくれ」と口に出す。人獣は動きを止めきょとんと瞬きをした。人語を解す人獣であってくれと願い、続ける。
「俺はどうせこれから長くない、腹に穴も空いてる、言葉がわかるなら頼みを聞いてくれ、死んだら俺の肉を食っていいから」
人獣は大きな口を開けた。命乞いの途中でああこれは話が通じない種類だと思い、かぶりつかれる覚悟をしてギュッと目を閉じた。数秒待っても噛み付かれることはなかった。
人獣は毛に覆われた巨体と長くしなやかな脚を器用に折りたたんで座り、俺のすぐ隣に身を寄せるのがわかった。言葉が通じたかどうかはわからないが、俺はつかの間の延命に成功したようだった。
しかし、自力でここから逃げ出すことはできない。こうして考えあぐねている間にも腹から大量の血が失われている、見上げる場所にはポッカリと地上への穴が空きそこから空は見えているが、腕の力だけで穴から這い出ることはおそらく不可能だ。
眠い。
絶望的な状況で死に瀕したが、朝を迎えてもまた目を覚ますことができた。唇はカサカサで鏡があったらひどい顔色が確認できたろう。首から下は動かない。視線だけ向けて腹のほうを見ても枝は刺さったままだ。隣にはあの人獣がいた。人獣は俺を抱え込むようにして寝転んで、顔は俺の肩のすぐ隣にあった。まるで人のような顔をしているが、獣の耳と立派に巻いた角を生やしている。
朝陽の光に照らされた人獣は立派な雌山羊の姿をしていた。人獣が呼吸をするとその振動が伝わってきた。生きている。身動きできないまま死を待つ身として、思いつく悲惨な死に方の中で孤独に死ぬよりいくらかいい状況だったかもしれないなどと思った。そう思うようにした。
俺は助からない。けれども、生きられるなら生き延びたい。死にたくはない。生きているうちに食われないように祈ろう。
時間のわからない中、何度目かの朝が来た。俺は長い時間を眠り、夢か現かわからない時間を過ごした。
雌山羊はあれから何度か俺を齧ろうと口を開ける真似をしたが、その度に俺は「まだ生きているぞ」と声を出す、すると齧るのをやめるという繰り返しをした。からかわれているようにも遊んでいるようにも思えた。
いよいよ死が目前に迫っているのを感じた。
痛みを感じない。
温かい。
「ひと、」
「しんだ」
「かじ、る」
「たべる」
雌山羊が鳴いた。幼児のように拙い言葉だった。俺はもう声が出せなかった。目はよく見えなかった。指一つ動かせなかった。霞む視界に青い色が見えた。空がよく晴れていた。
俺は息を吐いて目を閉じた。
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