10話.注油

「ただいま」


 ヴァルツは久し振りに屋敷へ帰ってきた。

 今までは悪魔の粉の調査にかかりっきりで、軍の宿舎に寝泊まりしていたのだ。


 次の商談までに準備が必要だからと、スパルタクス大佐の命令での帰宅だった。

 なにせ今度の商談場所は、この屋敷だからだ。


「お帰りなさいませ、長兄殿」


 いつも通りのカイマンの出迎え、だがどこかやつれた様子である。

 それにいつもなら、母カーラや妹カタリーナも出迎えてくれる筈である。

 それが今日は無い。


「カイマン……何かあったのか?」

「あの……旦那様は無事、東南地域への航海に出発なされました」

「あぁ、知っている。あの日は随分賑わっていたしな」


「左様です。旦那様より「行ってくる。転んでもただでは帰らぬよ」とご伝言賜っております。次兄殿はイスマール帝国コンスタンティンへ商談にお出かけになられてまして。予定では今日戻ってくる筈でございます」


「相変わらず忙しそうだな、アルルも。商売も順調だと良いんだが。そういえば母上はどうした? 母上ー! ヴァルツが帰りましたぞー! 出かけているのか?」


 するとカイマンの様子が豹変した。

 歯を喰いしばり、両の拳を強く握り締め、節を白くさせている。

 そして、さも無念を、絞り出す様な声で話し始めたのだ。


「それが……奥方様はわけあって、この家を出て行かれました。そして、お嬢様もわけあって修道院に入られました。しかし今は行方知れずとなり……にございます」


「ちょ、ちょっと待て! どういう事だ?! 全く話が見えんっ! カイマン! 判る様に説明してくれ!!」



「ふーむ、そんな事が……俄には信じられんな」


 カイマンの話を一通り聞き終えたヴァルツ。

 カモミール茶を飲みながら落ち着きを取り戻し、考えていた。


「父上はこの事を知りながら出航を決断したのか……いや、まぁ妥当だな。とても何かしてやれる事案じゃない。それか或いは……」

 

 母カーラの事は、果たして元に戻せるのか、とんと検討もつかない。

 カタリーナの事は、彼女が殺人などする筈がない。


「父上は予めこの事について、国王に根回ししてあるのかもな」

「真にございますか?」


「あぁ多分な。中央が動くにしては国王はこの件について中立的だ。それはきっとそう言う事だ。どうも異端審問所の言ってる事、やってる事は解せないな」


 神父殺しは大罪だ。

 しかも被害者は、ここ聖ラピス教会の神父。


 もしそれが真実だとすれば、忠実な教えのしもべとして“敬虔王”の綽名もある国王ジョアンⅡ世なら、その実行犯をひっ捕える様、軍を動かす勅命を出すくらいの事はするだろう。


 だが今のところは、異端審問所の単独捜査というていだ。

 これでは万が一の場合、その責任を異端審問所だけに擦り付ける――そんな教皇の思惑すら見え隠れしている。


 それにしても、そうまでして異端審問所を突き動かしているのは何か――それはヴァルツにも分からなかった。


「なーに大丈夫さ、アイツがそんな事する筈が無い! それに俺でさえ受けてないカイマン直伝の闘気術の稽古を受けたんだろ? 捕まらんさ、アイツは」


「……勿体無きお言葉にございます」


 ヴァルツも二人の件は、一旦脇に置く事にした。

 これ以上、自分にもどうしようもないからだ。

 それよりも今は、自分が為すべき大事な任務がある。

 

「それでだカイマン。済まないが準備を頼みたい。屋敷で商談をする事になった。あと、教会でキテラ日記を借りておいてくれないか?」


「御意」



 ヴァルツはアルルヤースの帰りを待っていた。

 その間、カイマンに借りてきて貰ったキテラ日記に目を通していた。


 ヴァルツにはこの間の商談で、どうも引っ掛かる事があったのだ。


(あの時バルで会ったのは、グレースさんではないんじゃないか?)


 見た目も雰囲気も瓜二つ。

 しかもあの様な独特な特徴の人物などこの世に二人とないだろう。


(だが俺を見てもまるで知らない様だった。この屋敷の事さえも……)


 だから気になったのである。

 そこで何か手掛かりが無いかと、手にしたのがこのキテラ日記だ。


「ただいま。やぁ兄さん、帰ってたのかい」


 日記から目を離し玄関を見るとそこに居たのは、アルルヤースであった。


「アルルヤース、俺の留守中に色々あった様だな。カイマンから話は聞いている。本当に大変だったな、よく頑張った」


「そうか、話は聞いたんだね。正直、何も出来なかったさ。ただただ僕にも出来る事はないかって考えたけど、結局、子供みたいにあたふたしてただけだ、情けない」


「そんな事はない! おかげでカタリーナは命を取り留めたじゃないか!」


「でも今は追われ身でどこにいるかも判らない。もう生きて会えるかどうかも判らないんだよ……?」


「なあに、あいつはそんなに“やわ”じゃないさ、心配要らない。俺達はただアイツの無実と無事を信じれば良い。戻ってきたら全力で庇えば良い! それだけだ」


「そうだね。それしかないかもね」


 その表情は依然、重苦しいままだった。


「アルル、あまり深く思い詰めるな! 俺達は俺達に出来る事をやるしかないんだ。それで……ちょっと聞きたい事があるんだが、良いか?」


 ヴァルツはムイピカン亭で出会ったグレースそっくりな女の事を話した。

 そして数日後にはまた彼女たちと商談をする事も。

 するとヴァルツはすぐに気付く事が出来た――それを聞いていたアルルヤースが、みるみる青ざめていくのを。


「いけないっ! 兄さん。そいつは危険だ! “悪魔の粉”を教えただろ? この粉を作っていたのはグレース=キテラだったんだ!」


「何だと?!」


「彼女はアル・サーメン商会の総帥。商会を使ってこのエウロペに広めてたのさ! その商会の総帥だという唯一の手掛かりである似顔絵を僕は見させて貰った。それはグレース=キテラだったんだ!」


「ふうむ……成る程な。だがな、俺がバルで会ったその女は、見た目はグレース本人としか言い様が無いんだが……とにかく本人じゃない感じがしたんだ、俺達が知ってるグレースさんとはな」


「どういう事?」


「取りあえず、グレースさんとまた会えないか? 会えば判る気がする。出来れば今度の商談前に会って話を聞きたいところだ」


「兄さんがそう言うなら……分かった。連絡を取ってみる。僕も彼女を信じたいしね」



(続く)

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