21話.開扉
エンリコはグラン・グリモワールをバラララッと勢いよく捲った。
スッと留めたページで呪文を唱えると、何も無い筈の彼の頭上に黒い円が出現した。しかもそれはエンリコの邪気を、いやそれだけでない、近くに居たカタリーナやウロボロスの邪気をも吸い込み始めたのだ。
彼が唱えた魔術。
それはこのグラン・グリモワールの最大奥義。
人間には到底扱えぬ代物――“禁術”だった。
魔術封印の結界下を考えれば到底発動しないだろうと普通は考える。
それを躊躇なく選び唱えさせたのは、ひとえに彼の愚者たる所以だったろう。
禁術【
その発動に大量の“邪気”を要する事が他の魔術とも既に一線を画している。
これこそは、この世の理『
何の因果か偶然か、この竜の渓谷はアリス=キテラの施した魔術封印の影響が及んでいなかったのだ。この時、彼の不惑の選択は、本人もその本質を知らずして、彼の思い通りに描かれた。
◇
エンリコという男。
元はヴァラキアの教会に派遣されたれっきとした立派な神父であった。
だが今の彼に世でいう道徳や秩序、価値観といったものは通用しない。
常識に縛られず、ある意味、真の自由から発想し判断し愚行する。
最早、人間だった当時の面影は全く残されていない。
彼は“愚者”に変わり果てていた。
ただ彼がそうなったのには理由があった。
――魔女狩りだ。
◇
エウロペの黒歴史の一つ、魔女狩り。
それが齎すは、聖職者たちによる無慈悲の弾圧だった。
中でもヴァラキア公国においては、無辜の民もが非道の拷問を受けた。姿を現わさぬアクラ公の居場所を詰問する為に。
同じ聖職者であるエンリコでさえも“異端”とみなされ拷問を受けた。
結局、アクラ公は見つからず異端審問官達は街の捜索を止め去っていった。
この時エンリコは、聖職者である事、いや人間である事にすら絶望しヴァンパイアになる事を自ずから望んだ――そう“カラボス”に懇願して。
カラボスの存在は、アクラ公の度重なる告解から承知していた。
カラボスからすれば、聖職者は不倶戴天の敵。
斯様な者が人を辞めたいと冥界の者に懇願する。
ふふ面白い――どうなっても良いというつもりでカラボスはエンリコの首元を無情の加減で咬みついた。
邪気混じるカラボスの獰猛濃厚な血が無遠慮に送り込まれ、
それは普通なら人を藻掻き狂わせ死に至らしめる筈だった。
エンリコにそれを耐えさせたもの――彼はその時、最後の祈りを捧げていた。
あぁ神よ、感謝します。
もうこれで死んでも構わない――。
聖職者の祈りが天界に通じる事は、ままある事だ。
だがこの時、彼の声は天界でなく、冥界に届いた。
そして彼は、生き永らえた。
気付くとヴァンパイアに生まれ変わっていた。
カラボスは気付いていた。
彼には冥界より力が送られ、それが彼を生き永らえさせた事を。
その力の意図をカラボスは推察し苦笑する。
そして言った。
「愚かなる者よ、我を崇め慕うが良い。我への絶対の忠誠を忘れるな!」
こうしてここに一人の“愚者”が誕生する。
そして、カラボスこそが彼の
そんな彼にとって、禁術を選択する躊躇など微塵も無かったのだ。
例えそれで、どの様な結果が待ち受けていようとも……。
◇
苦しみの雄叫びを挙げるエンリコ。
それ程の苦楚を
自身の邪気がどんどん何も無い宙の一点に吸い込まれていく事に驚きを隠せないカタリーナとウロボロス。
「ぐあぁぁぁぁあぁあっぁぁぁっ!!」
「くっ! 何よこれっ?!」
『何だコレは?!』
皆が嫌な気配を感じていたその時、
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴォ!!
大地が、空間が、大きく揺れていた。
立っている者は無論の事、いち早く羽ばたき大地を発ったドラゴンでさえ、その宙で上手く飛べず藻掻いている。
そしてもう一つ。実はカタリーナの腰の聖杯も、細かく震えていた。
しかし全てが大きく揺れる中、バランスを取り必死になっているカタリーナにそれを知る由もない。
神父の頭上に現れた謎の黒い円は、尚も神父、カタリーナ、ウロボロス、そして遂にはアルスレイ、お供の黒竜の邪気までも吸収し、その径を大きく広げていく。
すると、その闇の円の中から人影がゆっくりと下に降りてくるのだった。
やがてそれが大地に降り立ち、全身がすっかり現れると揺れは治まり、闇の円も縮んで無くなっていた。
神父が召喚した闇の円より現れし者はゆっくりと辺りを見回し「ふぅ」と一呼吸おいて語り始めた。
「久しぶりにこちらの世界に来たと思ったら……まさかまたもこの地を訪れる事になろうとはな。因果なものよ」
陽光を払い、暗黒を
その手に掴むは、
マントが靡き奏でるは、冥府で嘆く死者共の声。
美しき金色の長い髪、威風堂々たる鋭き漆黒の角。
その風格はまさに“神”であった。
神父エンリコが唱えた魔術、グラン・グリモワールに記された禁忌中の禁忌。
禁術【
それは冥界と人間界を繋ぐ『ゲート』を産み出す魔術。
かつて冥界の者が一度だけ人間界に赴くのに成功した。
上位悪魔、則ち魔神クラスだけが知る術。
この術によって創出されるのは冥界と繋ぐ扉のみ。
しかも必要な魔力がギリギリであった為、今回は一人が潜り抜けるだけでゲートは消失してしまったのだ。
だから誰が召喚されるかは術者にすら判らない。それは『運命』の
彼の者は、かつてこの地で争い陶酔に浸った記憶を思い出しながら、久しぶりにまたこの世界で暴れられる喜びにうち震えていた。
「さて、主よ。我は冥界の神ハデス。そなたの望みはなんであるかな?」
「おぉ! ここに居る奴等を一掃して欲しいのだ」
「良いだろう、ちょっとした肩慣らしといったところか」
ハデスは体に“気”を溜め込む。
――異質。
それは殺気でも邪気でも無い、今までカタリーナ達が感じた事の無い類の気。
まるで魂に“穢れ”と言う名の手で直接触れられている感触――『霊気』。
いま超高密度の霊気が練り上げられ周囲の者に“怖れ”となってそれを知らしめた。
「みんなーっ!逃げろーーっ!!」
カタリーナは叫んだ。
(皆が私の為に戦った! そして今の状況が生じた。今度は私が皆の為に戦おう!)
カタリーナは手に入れた悪魔の力を皆を救う為に躊躇なく使う覚悟を決めて、ハデスとの間に立ち塞がり、大剣を構え大きく深呼吸し気合を入れた。
大剣を、巨大な邪気の炎が包み込む。
ドクンッ!
(えっ?!)
更に大きく膨れ上がる筈だったカタリーナの邪気の炎は、なぜか急に小さく縮んでしまい、僅か大剣を纏う程度に収まってしまった。
そこへハデスが攻撃を仕替ける。
「破ァッ!!」
ハデスの体より全方位に放たれる強大な霊気。
それはここに居るあらゆる生き物を滅ぼすかの如く、物理的な衝撃をも伴って皆に襲いかかった。
ドクンッ!
無差別で圧倒的な攻撃、カタリーナの周りは皆、倒れていた。
あの神父エンリコも攻撃を喰らい苦しそうに倒れている。
空に居た
ウロボロスは即死。
カタリーナの後ろに居たジーク、オジキ、キース、キャサリン、ルイ、アルスレイ達も攻撃を喰らい地面に倒れている。
しかし、幸い生きてはいる様だ。
なぜかカタリーナは無傷であった。
彼女に当たる直前、その強大な霊気はどこかに吸い込まれる様に消えてしまったのである。
(続く)
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