第2話
瑛美さんとの生活は淡々とスタートした。マンションには瑛美さんの部屋と岩角の寝室、それから空き部屋がふたつあったのでそのうちのひとつが私の部屋になった。着の身着のままでここまで来てしまった私の生活用品を瑛美さんはネット通販でひょいひょいと買い揃えた。支払いは全部瑛美さんを通して岩角持ちになるらしい。服と化粧品だけは外に買いに出かけた。瑛美さんは監禁はされていなかったけれど、常に監視はされていた。買い物に出る際には必ず岩角に連絡を入れ、彼の舎弟(毎回違う男だった)がクルマを出した。デパートでもドラッグストアでもスーパーマーケットでもコンビニでも瑛美さんのすぐ傍らには強面の男の姿があったし、彼女はそれらの番犬の存在をまるで気にしていなかった。というかもう、慣れてしまっているように見えた。
最近の若い子はどんな化粧品を使うの、と瑛美さんは楽しげに尋ねた。私は韓国の化粧品が好きなので素直にその旨述べると、クルマ出して新大久保まで行こうか、とにこにこしながら瑛美さんは言った。そして翌日実際に新大久保まで出向いた。めちゃくちゃ遠かった。なんで瑛美さんはこんなにも東京の端に住んでるんだろう。
スマホを含む僅かな私物を取り上げられはしなかったので、夜中にこっそり玄國会について調べた。とはいえまとめサイトをちょっと読んだ程度だけど。本拠地は都内の四谷。関東圏ではいちばん大きい暴力団らしい。関西の
岩角遼についてもまとめサイトにはちょっとだけ載っていた。今はもうない
瑛美さんのことは何も分からなかった。
話し相手になれと言われたので毎日お喋りはしたけど、本当にこれで父の生活が多少は楽になるのかまったく分からなかった。心配すぎる。スマホで父に連絡を取るのは可能ではあるけど、勝手なことをしたことによって事態が悪化するのは嫌だ。私には岩角の飼い犬でいることしかできなかった。
仕方ないから毎日朝7時に起きて、ひとりでぼんやりテレビを見て、スマホでソシャゲをちょっとやって、9時に瑛美さんを起こして一緒に朝ごはんを食べて、ふたりしてきちんと身なりを整えて、出かけることもあれば家から一歩も出ないこともあり、配信で映画を見たり、映画館に映画を見に行ったり、たまに都心の美術館に行ったり、なんかそんな風にして毎日を過ごした。
大学の同期とか先輩とかお世話になった教授とかにも全然事情を説明せずいきなり学校を辞めたので、近況を尋ねるLINEが来ることもあった。けど全部無視した。私が誰かと連絡を取ることで悪いことが伝播するのが恐ろしかった。
私の世界には瑛美さんと、たまに帰ってくる岩角遼しかいなくなった。
「つまんない?」
瑛美さんが唐突に尋ねた。春だった。私たちは駅前の商業施設で行われていた古本市に腕捲りをして繰り出し、両腕いっぱいに戦利品を抱えて戻ってきたところだった。
新約聖書をモチーフにして撮られた写真を集めた写真集を手に入れてホクホクだった私は、瑛美さんの質問が一瞬理解できなかった。
「毎日私としか喋れなくて、つまんなくない?」
「……つまんないことは、ないです」
瑛美さんと喋るのは楽しい。瑛美さんは昔ホステスをやっていて、そのお仕事の関係で岩角と知り合って結婚したらしくて、そういう私の知らない世界の話を御伽噺でもするような口調で語ってくれた。私は私で途中で終わってしまった大学生活の思い出とか、地元の高校に通っていた頃の話なんかをつらつらと語り返して、私たちはなんとなく良いバランスを取れていると思う。
「でも、父さんが心配です」
私の心配事はそれだけだ。私は風俗に売り飛ばされなかったし、やくざの奥さんとやくざのお金でのほほんと生活をしているけど、だからといって父の借金がなかったことになるわけではない。というか私の生活費が借金に上乗せされていたらどうしよう。有り得る。怖すぎる。
「そうかあ」
昭和の時代に死んだ死刑囚が詠んだ歌集をぱらぱらと捲りながら、いいなぁ、と瑛美さんは続けた。
「いいなぁ、ですか?」
「私はさぁ、心配する人とかもういないから。みんな死んじゃったから」
「……」
出た、突然の重い話。私は写真集から手を離し、デニムの膝の上で両手を握る。
肩口で黒髪をゆるく結った瑛美さんが、紅差して艶やかなくちびるの端をちいさく歪めて見せる。
「私ねえ、岩角とは再婚なの」
この話私が聞いていい話なのかな。駄目だとしても瑛美さんは語るのをやめないだろうけど。
「前の旦那さんは、戸川って名前」
「……え」
「戸川組っていう小さい組の組長さんだったんだけど、死んじゃった」
戸川組。岩角が前に所属していた組ではないか。二代目を継いで、それから解散させた組。
「響ちゃんはもう調べたんじゃないかな。岩角はもともと戸川の二代目」
「……あの、まさかですけど」
「戸川を殺したのは岩角じゃないよ。でも戸川が死んだら私、もうやくざと関わるのやめようと思ってたんだよね」
瞼の上に薄墨を掃いた瑛美さんの長い睫毛がゆっくりと上下する。
「でもね、岩角がプロポーズしてきたから」
してきたから、気持ちが変わった? 瑛美さんは前の旦那さんのことを愛していた、のだろうか。それとも嫌だったからもうやくざとは関わらないようにしてたのに、聖母マリアみたいな岩角にプロポーズされて考えが変わった?
分かんない。何も。
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