海を見に行く

大塚

第1話

 父ひとり娘ひとりで慎ましく生きてきた。人生が狂ったのは20歳の成人式の日だ。家にやくざがやってきた。


 漁師である父の仕事がうまくいっていないようだということは、なんとなく察していた。それでも父は芸術系の学部がある大学に進学したいという私の希望を聞き入れてくれたし、高校を卒業してすぐに進学した大学でのキャンパスライフはとても楽しいものだった。だから、父が関わってはいけない人間からお金を借りてしまった理由に、私も含まれているのだ。

 玄國会げんこくかいという組織の若頭を名乗る男は借金を今すぐ返済できないのであれば父の商売道具を差し押さえると言った。漁船のことだ。そんなに新しい船ではないけれど、売ればそれなりの金額にはなるだろう。

 もう少しだけ待ってくださいと父はひと回りも年下の男の足に縋って嘆願した。父は、そんな姿を私に見せたくはなかっただろう。だが成人式のために帰省していた私は見てしまった。そして、見て見ぬふりはできなかった。このままでは父の命まで取られてしまう。

 大学を辞めて働きます、と私はやくざの前に飛び出して叫んだ。両目を真っ赤に潤ませた父が驚いたように私を見、ひびき、おまえは下がってろ、と強い口調で言った。だが、やくざの視界に、私は既に入ってしまっていた。

「娘さん」

 やくざは呟くように言った。

「響さん?」

「そうです」

「いくつ」

「はたちです」

「……大学生」

「辞めます」

 父がこの男からいったい幾ら金を借りているのか、想像するのも恐ろしかった。普通の方法で稼ぐ金では絶対に返済し切れない額だろう。ただでさえ父の仕事は滞っているのだ。私にできることは……私がやくざに斡旋してもらえる仕事は……体が震えた。でも駄目だ。私には父しかいない。父にも私しかいない。

「なるほど。美しい親子愛だ」

 微笑んで言うやくざは、こんな時に覚える感想ではないだろうけれど、とても綺麗な顔をしていた。ちょっと引くぐらいの美形だ。なんでやくざなんかやってるんだろう。彼の周りに立つ舎弟と思しき男たちは全員岩石みたいな顔をしているのに、彼らの中心にまるで全能の神のような佇まいで立つやくざは私が今までに見たどの人間よりも美しい顔をしていた。でもやくざだから悪人だ。

「分かりました。響さんの身柄を預かりましょう。大学も辞めてもらいます」

 父の顔面が蒼白になる。娘だけは、娘だけは見逃してくれと何度も叫ぶ。船も家も全部手放すから、どうか響だけは……。

「響さんにしかできない仕事があるんですよ。お金をすべて返してもらうまで、お嬢さんは私が預かります。あなたは死ぬ気で仕事をしてくださいね」

 やくざはそう言ってにっこりと笑った。聖母マリアみたいな笑顔だった。


 一週間後、私はやくざ同伴で大学の退学手続きを済ませ、聖母マリアみたいな顔で笑うやくざの左ハンドルのクルマに乗せられて東京23区の外に連れて行かれた。一人暮らしのアパートの解約もしてくれるという。とても親切だ。でもこの親切の分、私はものすごく酷い目に遭うんだろうなぁとぼんやりと思った。ぼんやりと思っていなければ大声で泣き出すか暴れ出すかしてしまいそうだったのだ。舎弟が運転するクルマの後部座席に私とやくざは並んで座っていた。

「ああ、俺はこういう者です」

 できるだけ距離を取りたくて窓に張り付いている私に、やくざが唐突に何かを差し出してきた。名刺だった。


 岩角遼いわすみ りょう、と書かれていた。

 見た目通りに綺麗な名前だなと思った。


「あの……岩角さん」

「はい」

「私、どこに売られるんですか。ふ、風俗ですか」

「……」

 意を決して発した問いに、岩角遼は答えなかった。色素の薄い瞳で私の頭から爪先までをじっと見詰め、もっと悪いところだよ、と答えた。もっと悪いところって。どこ。

 墨色の髪を左手でかき上げ、岩角はちいさくため息を吐いた。運転してる舎弟も何も言わないし、車内は最悪な沈黙に覆われていた。舌を噛んで死んでしまいたい。でも駄目だ。私の身柄で父の命が少しだけでも保障されたのだ。私は生きていなくてはいけない。

 デニムの膝を固く固く握って、私は歯を食い縛る。死ぬもんか。何があっても。


 辿り着いた場所は、23区内で普通に暮らしていたら絶対に足を運ぶことのないであろうものすごくマイナーな駅前にある、背の高いマンションの一室だった。

「こっち」

 岩角が手招くので、私は父のスタジャン(なんの気休めにもならないだろうがお守りにしろ、と渡されたのだ。サイズが合ってない上に重い)を羽織ってクルマを降りて彼の後を追った。最上階、11階の角部屋の扉を、岩角は大した感慨もない顔で開いた。

 わかったぞ、と思った。私はここで飼われるのだ。なんか……その……変態性癖を持つ中年やくざとかそういうのに、性奴隷として。そうに違いない。私まだ処女なのに。彼氏がいたこともないのに。でもこれで父の寿命が伸びるなら……借金返済の期限が伸びるなら……。

「入れよ」

「は、はい!」

 岩角が呼び、私は慌てて黒い扉を潜った。広い玄関、長めの廊下、ぱっと見部屋の中は普通だった。しかもちょっといい匂いがする。なんだろう。香水かな。

「戻ったぞ」

「あら、珍しい」

 リビングに通じる扉を開いて岩角が言った。返ってきたのは、女性の声だった。……え、女性?

 リビングダイニングの真ん中に置かれた小さなテーブルと二脚の椅子、その片方に腰を下ろして本を読んでいたのは私の予想を大幅に裏切り、ひと回りほど年上の女性だった。岩角が聖母マリアなら彼女は……

「何かあったの」

「なにもねえよ。自分の家に帰ってきちゃ悪いか」

「悪くはないよ。……ところでその子は誰?」

「あんた暇なんだろ。話し相手にでもしろ」

 と、岩角が私の背を押して女性の前に突き出した。闇夜の色の長い髪が痩せた肩を覆い、きっちりと化粧を施した顔、切れ長の目、すっと通った鼻筋、肉感的なくちびる、そのくちびるがふと笑みの形に歪んだ。

「なんでも人任せなんだね」

 と、女性は言った。岩角に言った。言われた岩角は鼻の上に皺を寄せ、まあ仲良くやれ、俺は寝る、と言ってリビングを出て行った。

「もう寝るの?」

 既にここにはいない岩角に女性は問い、夜また出てくんだろうな、とちいさく呟いた。

「あ、あのう……」

「ああ、座って。とりあえず名前を聞いてもいい? あなたは誰?」

「は、はい……」

 女性の正面に置かれた空いている方の椅子、それはたぶん岩角の席なのではないかと思ったのだが、促されては断るわけにもいかず椅子の背にスタジャンを掛けて腰を下ろす。女性は私と入れ違うようにして立ち上がり、キッチンに姿を消したかと思うと、コーヒーカップを手に戻ってきた。

「コーヒー好き?」

「あ……ふつうです……」

「今はコーヒーしかないの。ごめんね。それであなたは、誰なのかな?」

「あっはい、え、」

 私は、私は誰だっけ?

小津おづ響です」

「おづひびきさん。どこから来たの?」

「じ、実家は……茨城……」

 漁師の娘です、お父さんが岩角さんからお金を借りて、私がここに来ることになりました、というようなことをどうにかこうにか口にした。女性は細い顎に細い指を当ててふむふむと頷きながら私の言葉を聞き、

「つまりあなたは、岩角の飼い犬にされてしまったんだね」

 と言った。飼い犬。

「飼い犬……」

 思わず反駁した私の顔色が相当に悪かったのだろう。でも安心して、と女性は言葉を重ねた。

「私もあいつの飼い猫だから。大丈夫、仲良くやりましょう」

「お、おねえさんも、あの人にお金を借りたんですか」

「ん? 私はね、あいつの奥さん」

 尋ねる私に、女性はふんわりと微笑んで言った。

「岩角瑛美えいみです。よろしくね」

 そういったかたちで20歳の年明け早々に、私はやくざの飼い犬になった。

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