第33話 穏やかな時間

 「名前をあげます」とは言ったものの、魔王にふさわしい名前とは一体どんなものなんだろう。


 いつものように魔王城の雑用を手伝いながら、仲良くなった魔族の人たちに「魔王陛下に名前をあげようと思うんですが、どんな名前がいいと思いますか?」と相談するとことごとく変な顔をされた。

 今にも笑い出すのをこらえているような、甘いものを口いっぱいに詰め込まれたような。その度にわたしは「変なことを言いましたか?」と質問するのだが、その度に「いえいえいえいえ。なんでもないですよ」と言ってはぐらかされる。そしてくすぐったがるみたいに笑うのだ。「良い名前を差し上げてくださいね」なんて言いながら。


 みんな、わたしに何か隠しているのではないかしら。


 そんなことを考えながら雑用を終えて部屋に戻ると、窓から差し込んでくる日差しを浴びてキシールがお昼寝をしていた。


 最近はキシールは、眠っている時間が長くなった。どこか体調でも悪いのかと思ってカイドルさんにも相談したのだが、どうやら病気というわけではないらしい。


「寝る子は育つ、って言うでしょう? 放っておけばいいんです」


 いくらキシールが大飯喰らいで家計を圧迫するからって、その言い方はちょっと、ドライすぎるんじゃないだろうかとわたしは思う。ドラゴンの幼生なんて誰かに飼育されたことはないだろうし、もしかしたら未知の病気である可能性だってあるじゃないか。


 そのことが心配になってしまったわたしは、暇を見つけては眠っているキシールの横で鼻面を撫でながら、彼の回復を祈っている。聖女としての力が魔族の代表格であるドラゴンにも通用するかどうかはわからないが、何もしないよりはずっとマシだ。


 キシールは、魔王城ではじめてできた友達だ。彼がわたしの緊張と、気負いを解いてくれた。彼がいなかったらこの城に馴染めなかったかもしれない、と思うくらいの、わたしにとっては恩人(恩ドラゴン?)なのだ。困っているなら力になりたい。


 だけど、眠り続けるキシールを心配するのは魔王城でわたしだけだった。

 キシールが窓辺で日向ぼっこをしながらうとうとと眠っているとき、近づくのはわたしくらいなものだった。結果的に、キシールのために祈るときは、部屋に彼とふたりきりになる。

 キシールは眠っているので、部屋の中はとても静かだ。


 こうしてみると、また随分大きくなった気がする。出会った頃は大きな犬くらいのサイズだったのに、今では小ぶりのベッドくらいある。このままだとそのうち、この部屋から出られなくなるのではないだろうか。扉の横幅だって、今でもぎりぎりな気がする。今のうちにカイドルさんにリフォームを提案するべきかもしれない。


 キシールの鱗を撫でながらそんなことを考えていると、不意に彼が目を開いた。


 金色の瞳は未だまどろみの中。半分以上夢見ているような状態で、むにゃむにゃと「おかえりなさい」という。


「待っていてくれたの? 自分のお部屋に戻って眠ってもよかったのに」


「だって、おひいさまに会いたかったんだよ」


 鼻をわたしの掌に押し付けて「撫でて」と要求するキシール。「かわいい」だなんて形容は誇り高いドラゴンには失礼なのかもしれないけれど、率直な愛情表現が嬉しい。


「ぼくね、おひいさまがすき」


 唐突な告白にわたしはびっくりしてキシールを見た。いたずらが成功したこどものような目で「うひひ」と笑って、キシールはもう一度瞳を閉じる。


「おひいさまを見ているだけで、そばにいるだけで、胸がぽかぽかするんだ」


 それだけ言うと、すぐにまた眠ってしまった。


「ありがとう……」


 ぷうぷうと寝息をたてるドラゴンを撫でながら、きっと聞こえていないだろうけどそう言わずにはいられなかった。


 キシールの母は勇者さまに殺されている。そして、勇者さまにそれが可能になる力を与えたのは、聖女であるわたしだ。言うなれば、母の仇と言われたってしょうがない関係なのだ。


 キシールはそれを理解していながら、わたしに好意を向けてくれた。

 恨みや憎しみに囚われず、わたしという個人を見て、好きだと言ってくれたのだ。

 誰にでもできることではないと思う。そんな彼の純粋さに、目頭が熱くなった。


 ありがとう、わたしを受け容れてくれて。


 ありがとう、わたしに優しくしてくれて。


 本当にこの胸に神の力を宿した宝玉があるというなら、どうかお願いです。この先ずっと、彼に辛いことが起こりませんように、幸運がいつも側にありますように。


 鼻面に優しくキスをしてから、わたしは傍らにあるベッドに腰かけた。


 心が広がっていくようだった。魔王城にくるもっと前から、視野が狭くなっていたことが、今ならよくわかる。


 「好きだ」と告げられたことが素直に嬉しい。王国で、人間社会で聖女として役割を全うしている間には決して得られなかった温もりだ。


 王家の勇者様を戦いの矢面に出す方針に反対するために随分無茶をしてきたから、わたしを支持してくれる人は王国にはほとんどいなかった。神殿長さまは中立を貫いてくださったけれど、「王家に逆らうのをやめなさい」と何度も苦言を呈されて、感情的な関係は次第に悪化していった。


 あのころのわたしの唯一の希望は、勇者さまだけはわたしの行いを理解してくれているということだったけれど、結局それもただの思い込みで、あの人はわたしが邪魔だと言い放ち、とうとう追放されてしまった。


 けれどこうして勇者さまや神殿から離れてしばらく経って、わたしも大きく変わったし、色々なことを考えることができるようになった。それで、ひとつ気が付いたことがある。


 あのころは勇者さまのことが好きだと、どれほど冷たくされてもそう思おうとしていたけれど、こうして離れても特に感慨を抱かないあたり、わたしからの思いもまた、「勇者を選んだ責任」によるところが大きかったのかもしれない、と思うのだ。

 あの人へのわたしの想いが本当に恋であったのなら、キシールのようにもっとそばに寄りたいと思ったのではないだろうか。あの人が求める性的な接触を、受け入れたいと思ったのではないだろうか。


 ドーハートさまを想うとき、彼のために祈るとき、ただひたすらに胸が苦しかった。それが恋なのだと思おうとしていた。わたしが選んだのだから、わたしが愛さなければと思っていた。


 だけどそれは違う。誰かを愛することは、恋をするということは、本来、苦しいことではないはずだから。

 今ならわかる。誰もわたしを愛していなかったように、わたしもあの生活で、誰も愛することはできていなかったのだ。


 そう考えると、誰かを好きになるということを、わたしは随分長い間してこなかった気がする。


 それほどの余裕がなかったと言えば聞こえはいいけれど、親を亡くしたばかりのキシールだって当然にできていることなのだ。これはわたしのこころの問題だろう。


 確かにわたしは、ドーハートさまが言ったように神殿が抱える聖女としてはふさわしくなかったのかもしれない。


 だけどそれでいい。もう、聖女でなくても構わない。

 今は、わたしを受けれいてくれた魔族たち、好きだと言ってくれたキシールに恥じない自分でありたい。


「この城に来たころとは、まるで正反対ね」


 自分でも思いがけないつぶやきに驚いて、わたしは片手で唇を抑えた。


 キシールを起こしてはいけない、と思うが、最近一度寝入ってしまったキシールは、外で雷が落ちようとカイドルさんが他のモンスターを大声で叱りつけようと起きることはない。例にもれず、わたしの独り言なんかじゃびくともしないで眠り続けている。


 それを確認してから、わたしはもう一度物思いにふけった。

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