第八十二話 再来の予兆

 ソフィーとソフィー兄がキスをして、ソフィー兄の吸唇鬼きゅうしんきとしての能力を引き出す――。

 僕はソフィーの言葉に、思わず身を起こす。何か言わなきゃとは思うんだけど、僕はただ口を開けるだけで、喉の奥からうめきのようなものしか出てこない。

 そんな僕を見て、彼女はおかしそうに笑った。


「何ですか、強くん。ハトがカラシニコフ喰らったみたいな顔して……」


 本当に屈託のない彼女のその姿は、逆に僕を冷静にさせた。


「……ダメだ。ゼッタイ、それだけはダメだ」

「あら……、なんで?」

「兄と……、妹だろ? それに、今はもう改善したのかもしれないけど、キスすることでまた、ソフィーに異様に執着するようになるかもしれないだろ……」

「ふふ。心配してくれるのね」


 たおやかな笑顔はそのままに、どこかうつろにも見える瞳でソフィーは「大丈夫よ」と言った。


「たとえそうなったとしても……元に戻るだけよ。私と強くんがキスをしたより、前に」


 僕が返す言葉に詰まっていると、隣の布団の詩織しおりが急に身を起こした。

 「アタシがキスする」と顔をしかめながら彼女は言う。


「アタシがソフィーちゃんのお兄さんにキスしてもらう……。それならいいでしょ!」

「詩織ちゃん! き、きき、キ、キスだって?! 何をトチ狂ったことを!」


 おじさんが色めきだつ。話がよく見えないということもあったんだろうけど、しばらく黙って見守ってくれていたおじさん。でもさすがに、娘が「キスする」などと言っているのには黙ったままではいられなかったのだろう。


「父さんは黙っててッ!」

「うん、判った!」


 そんなことはなかったみたいだ。よく調教がなされておられる。


「ソフィーちゃんは……ソフィーちゃんには強がいるんだから、ダメだよ……。アタシがやる……」

「ニェプ。心配無用よ……」


 「私、フラれたの」とソフィーは笑って言った。


「花火のときにね、強くんにはフラれたの」


 それを聞いた詩織は、すかさず僕をニラみつけた。弱っているだろうに、グーパンチで殴ってくる。


「いた、いた、痛いって……」

「バカ……、バカ……、クソバカつよし!」


 普段より力のない彼女の拳を掴み、僕は詩織の目を真っ直ぐに見た。


「詩織……。全部終わったら……全部言うよ……」

「全部ってなによ! いつ言うって……いうのよ……」


 僕の手の中で、彼女の力が抜けていく。

 詩織の言う通りだ。自分で言っといて……「全部が終わる」のっていつのことだ……?


「強、話が全然見えないが……詩織ちゃんを泣かすんじゃ……」

「……父さんは! シャラップリーズッ!」

「イェスマム!」


 笹原家ではこのやりとりが流行はやっているのだろうか。

 僕はソフィーに目を移す。


「キスの件は……、やることを全てやってからにしよう……。明日、ドローンを飛ばして、まずはすいに手紙を出してみよう……」


 彼女はうつむいて、「ふぅ」と小さくため息を吐いた。


「詩織も……いいよね?」


 僕は詩織にも顔を向けてそう言ったけど、承服しょうふくなのかそうでないのか、彼女はそっぽを向いたまま答えなかった。


「手遅れにならなければいいですけどね……」

「手遅れ?」

「すいさんの、性急に私たちを山から締め出そうとするこのカンジ……。ちょっと、イヤな予感がするんですよね……」


 彼女の言う「イヤな予感」がその場のみんなに伝わってしまったのか、温泉宿の客室内は重苦しい沈黙だけが残った。


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「お前たち、結構特殊な環境にいたんだな……」


 僕と詩織のおじさんは、ふたりで並んで宿のエントランスのベンチに座っている。

 体調もだいぶ落ち着いたため、いったんリフレッシュしろ、とおじさんは浴場に誘ってくれた。「鳴らし山」で倒れたまま部屋に運ばれたということもあって、汗やどろ汚れを落とせ、と勧めてくれたのだ。

 僕はおじさんにここ三カ月あまりのことを、かいつまんで話した。かいつまんでとは言ってもだいぶ長い話だ。お風呂に入りながら、そして、お風呂から上がってもなお、こうしてベンチに座り込んで話していたのだ。

 僕の話が現在に至って終わると、おじさんは静かにそう言った。


「詩織を……、まあ、拳一けんいちもなんですけど……危険なことに巻き込んでしまって、すみません……」

「謝んな。強のせいじゃないだろ」

「……その言いっぷり、詩織そのものですね……」


 おじさんはヒゲを揺らして笑った。


「ああ。詩織ちゃんは俺の子だからな。似ていて当然だ。拳一は知らん」

「……拳一にも興味もってあげてくださいよ」

「あいつはなぁ。妙に理屈っぽくてなぁ……。俺は苦手だ」


 確かに、拳一のこしゃまくれかたはちょっと度を越しているけど……。

 僕が苦笑いしていると、おじさんは「それでもな」と言葉を続けた。


「あいつは年の割にはもう充分しっかりしてる。空手はやらせたかったが、あいつはあいつで将来、好きな道を見つけてくれるだろうと俺は思う。親なんか、放っておくくらいのちょうどよさで、な。空手はやらせたかったし、拳一の性格は苦手だけどな」


 空手のくだり……。拳一が空手に興味ないことがよっぽど無念なのは、とりあえず判った。

 「強」とおじさんは、僕に顔を向ける。


「俺はな、こんなに小さい頃から知ってるお前のことも、自分の子どもみたいに思ってるんだからな。なにかあったら頼れよ。詩織ちゃんに手を出さない限りは、助けてやる」


 「こんなに」の部分で、おじさんは親指と人差し指で五センチほどの間隔をつくってみせた。

 さすがに、この世に生まれ出でる以前からおじさんに見守られていたわけではないとは判っているけど、そんなコテコテの冗談でも僕は嬉しくて、笑った。


「……はい。ありがとうございます。最後の……、重要ですね」

「当然。手を出したらぶち殺す。誰であろうと滅却めっきゃくする」


 「まあでも、いまのところ一番いいと思ってるのはお前なんだけどな」とおじさんは頭をきながらつぶやいた。

 そのときちょうど、僕たちふたりの前を通りかかった宿の従業員さんが立ち止まり、おじさんに顔を向けた。おじさんも彼女に気が付いて「おお」と声を上げる。


ゆうちゃん。子どもたち、もういいの?」


 「優ちゃん」……? あ、おじさん、「優太郎ゆうたろう」って名前だっけ……。全然優しくないけど……。名が体をあらわしてないけど……。

 そういえば、前回この宿の予約をとってもらったのは、「おじさんの伝手つて」だったな。この人がおじさんの知り合いで、その「伝手」なのだろう。


「ああ。助かったよ」

「びっくりしたわよ。急に『休ませてくれ』って気を失ってる子どもたち担ぎこんで来たときには……」


 彼女はかがんで僕の顔をのぞきこむと、「不気味なところだよね」と嘆息たんそくをついた。


「……不気味な?」

「体調悪くしたのって『鳴らし山』でしょ? 登山客みんなあそこで体調崩すし、それでなくても昔から変な話は絶えないで『近づくな』って言われてるお山だし、最近はおかしな外国人も出入りするってウワサだし……」


 最後の言葉が気になって、僕は「外国人ですか?」といた。その反応は彼女の何かを刺激したのか、話すのに「そうなのよ」と勢いがつく。


「布一枚だけ羽織はおって、こんな山奥でそれはそれは目立つ赤い頭らしいの。『鳴らし山』の入り口あたりをうろついてたり、山のことについて村の人に聞いたりしてまわってるみたいね。ちょっとコワいわよね……」

「赤い頭の……布一枚……」


 身なり風体ふうたいの情報がそれだけでも、僕には充分に心当たりがあった。ありすぎる。

 この前、「鳴らし山」でみんなで撃退した「セナートス」の赤毛だ……。

 セナートス――なんでも日本の裏世界に進出するための拠点として、「鳴らし山」に目をつけたという、ヨーロッパの闇の勢力……。みんなで力を合わせて、奇計にかけて、なんとか倒したこれまでで最大の敵……。最後にはすいの屁吸術にかかって、川を流れて行った赤毛。


「でも、その男の話って……、少し前までですよね?」


 「失魂しっこん」をかけられた以上、意識を回復するまでは時間がかかるはずだ。そのウワサも赤毛を撃退する以前の話だろうと、僕は不安を払拭ふっしょくするように確認した。

 けれど、従業員さんは「いんや」と首を振った。


「つい二、三日前にも村の人が見かけたって話よ?」


 僕は全身の肌があわ立つのを感じた。

 赤毛が……あの、とんでもなく苦戦したアイツが……もう復活したってのか? また「鳴らし山」に侵攻しようとしているのか? 

 だとすれば……今度もすいと、みんなと協力しないと……。


 けれど、僕の考えはまだ甘かったらしい。

 思考が混乱しはじめたところに加えられた彼女の次の言葉は、僕の顔をより一層青ざめさせた。


「それに、『その男』って言うけど、ひとりじゃないのよ? おんなじような赤い頭で、おんなじような格好の、おんなじような顔をした外国人が、何人もうろついているらしいのよ」

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