第三十九話 大事な人をずっと好きでいられる自分に

 翌日の放課後、現聞げんぶん先生のところを再訪するため、姉ちゃんは駆け足で家路いえじを急いでいました。

 途中、昨日も通った空地あきち前に差し掛かります。


「オメガくん! 大変、大変だヨ!」


 大きな声がしたので、姉ちゃんは空地の方に目を向けました。


博士はかせ……。どうしたんですか」


 昨日と同じ、小柄な男と、ヒョロヒョロの貧相な男。今朝もここを通った時にテントが張られているのを見ましたが、二人の姿は見えませんでした。今はふたりそろっています……が。


――やせている方の人……ちょっとだけど顔色良くなってる?


 昨日は絵に描いたようなガリガリ、見事にコケていたほほがほんの少しだけふっくらしたように姉ちゃんには見えます。


「ちょっと腸をいじらせてヨ! ガスを吸収するようにしなきゃ!」

「腸ですか……。体を直接いじられるのは、ちょっと……」

「強くなれるんだヨ! 妹さんもよろこぶヨ!」

「じゃあ……お願いします」

「いょし! 任せちゃってヨ!」


 ふたりはテントの中に消えていきました。


――なにか複雑な事情でもあるのかな……。


 姉ちゃんは少しの間ふたりが消えたテントを眺めていましたが、現聞先生を訪ねるという元々の目的を思い出すと、その空地を後にしました。


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「夕方遅くに訪ねてすみません。先生」


 姉ちゃんがお堂の道場の中、現聞先生に向けて土下座をします。

 現聞先生は白ヒゲを伸ばし伸ばししながら、姉ちゃんを見下ろしています。


「いや、構わんよ。若い女子を眺めるのは何度でも飽きんわい」


 なんだ? このジジイ。急にエロのキャラ付けしてきましたね。前回の威厳あるカンジはなんだったんでしょう。


「ふむ……。ふむ……」


 ジロジロと、姉ちゃんを舐めるように見回す現聞先生。いや、エロジジイ。


「……じゅるり」


 ヨダレまでらしています。


「して、用件は?」


 ひとしきり姉ちゃんを眺めて満足したらしい現聞先生……いや、エロジジイは、姉ちゃんに頭を上げるよううながすと、用向きをたずねました。


「……もう一度、アタシを門下に加えていただくことを考えていただけないでしょうか」

「ふむ……」


 現聞先生は立ち上がると、お堂を回るようにゆっくりと歩きはじめました。

 先生は何をしようとしているのかをはかりかねて、それを目で追う姉ちゃん。

 姉ちゃんの真横に来ると、現聞先生はその場で腰をかがめました。片目をつぶり、姉ちゃんに向かって人差し指を立てます。


「……?」


 何をしているんでしょうか……。ぼくもわかりません。

 姉ちゃんが耳を澄ませると、なにやらぶつぶつと小声が聴こえます。


「デー……。いや……イー?」


 あ、このジジイ! 姉ちゃんのおっぱい見てやがるんだ! キモッ! 測るな!


「……?」


 姉ちゃん、気づいてないのかよ! 今、アンタのおっぱいエロジジイに見定みさだめられてんだぞ! いいのかよ、乙女として!


「もっと、背筋せすじ……」

「……はい?」

「背筋伸ばしてみて」

「え……あ、はい」


 伸ばすな! 素直かよ!


「じゅるり」


 ヨダレ垂らすな! クソジジイ!


「……いいじゃろう」


 ゆうに五分ほど、その状態を無言で続けたあと、クソジジイは突然に言いました。


「……はい?」

「我が流派、詩織くんに学んでいただこう」

「……本当ですか?!」


 目を輝かす姉ちゃん。

 ぼくは、このエロジジイが入門を許可した理由を知ってはいけない気がします。


「見違えたようじゃよ。一日いちにち二日ふつかで何があったのか……。前回の詩織くんの中で鬱屈うっくつしていた感情は、今や君の成長の原動力としておおいなうねりとなっている。その、胸の中でじゃ」

「胸の……中で……」


 案外まともなことは言ってそうなんだけどな~。なんかこのジジイの言い方、含みがありますよね。


「好きな子といい関係にでもなったのかのう?」


 ヤメろ! その目つきをヤメろッ! そしておっぱいを見るな!


「いえいえいえ……。そんな、そんな」


 両手を大振りしながら否定する姉ちゃん。

 その格好がためできた姉ちゃんのおっぱいの「寄せ」を、上からのぞき込むように見るジジイ。

 キャラ付けがはじまってからのエロ度合いのエスカレートがスゴい! 止まんないよ!


「さて、遊んでばかりもいられんのう」


 遊んでる自覚はあったのかよッ! 

 

 エロジジイははじめの通り、姉ちゃんの向いに腰を下ろすと、キッと姉ちゃんの目を見つめました。

 ジジイの顔もエロくない。……よかった。やっとそれらしくなってきたよ……。


「最初に言った通り、我が流派……『曖気あいきどう』は、人の生死を容易く左右する怖ろしいものじゃ。千年以上……いや人の歴史が始まってから存在する、人の原初げんしょに関わる技を扱う」

「……はい」


――「合気あいきどう」……人体の仕組み、他者の攻撃を利用して制する、「守り」の強い武術……。それが「人の原初」ってわけね。


「父にうかがっています」

「ほう」


 現聞先生は目を光らせました。


「笹原くんから、かね?」

「はい」

「ならば話が早い……。詩織くんがその危険なを学ぼうとする目的を、ワシはいておかねばならないのじゃ」

「目的……」

「もちろん、今の詩織くんからはよこしま目論見もくろみはまったく感じられん。だが、この先はわからん。人はすぐにおごねたむ、ごうの深い生き物じゃからな」

「……」

「詩織くんが今後もし、そんなふちに足をとられそうになったとき、それをとどめるのは他でもない、詩織くん自身じゃ。今、この場で言葉として世に放つ詩織くんの想いが、どんな苦境でも君をふるい立たせてくれるちからとなるのじゃよ」

「先生……」


 先生……。


「アタシの目的……合気道を新たに学ぶ意味……」

「……うむ」


 姉ちゃんはほんの少し目尻をうるませながら、現聞先生を真っ直ぐに見据えます。先生はその視線を受けてひとつうなずくと、ゆっくりと目を閉じました。


「……アタシは……なりたいです。好きな人を……好きなトモダチを……ずっと好きでいられる自分になりたい! そのために今、力が必要なんです!」

「……うむ」


 先生は閉じたときと同じように、ゆっくりと目を開きました。

 

「その意気いきや良しッ! 今、言葉にした詩織くんの想いは必ず、現世で実を結ぶための種となろう!」


 先生……。ぼくはちょっと先生を見損なっていたようです。こうやって人を疑ってしまうことで、心というものは汚れていってしまうんですね、先生。


「あと、ブラジャーは柄物がらものじゃなくて無地むぢがいいと思うぞ」

「はい?」


 こんの、エロジジイがぁあぁッ!

 油断したスキにですよ! いい話で終われよッ! ねじ込んでくるなッ!


「さて、今日はもう夜になるじゃろうけど、せっかくだからデモンストレーションのひとつでも見せようかの」

「デモン……ストレーション……ですか」

「そう。『曖気あいきどう』の」

「『合気あいきどう』の……」

「すまんが、詩織くんに受けてもらうよ?」

「……はい」

「まあ、目の肥やしとでも思って。ワシも人に教えるのなんて久しぶりじゃし、ワシ自身に『かつ』を入れるのを手伝うくらいの軽い気持ちで、な」

「よろしくお願いしますっ!」


 姉ちゃんは座礼をします。


「では、立って」

「……はい」


 姉ちゃんはその場でスッと立ち上がります。スゴイな。ぼくだったらこんなに長い間正座してたらよろめいちゃいます。

 そのまま、姉ちゃんは構えました。


「あ、構えはいらんよ」

「はい」

「笹原くんから聞いとるようじゃけど、あんまり身構えなくていいからの」

「……はい」

「では……」


 姉ちゃんは、正面に立つ現聞先生の気配がこれまでとはまったく異質なものに変わったことを感じとりました。


――まるで、そこに先生が……人なんていないみたいに、静か。


 次の瞬間、姉ちゃんは身体の中心を針が突き抜けていったような感覚を覚えます。


――何?! 痛みじゃない……。先生は、動いてさえもいない。


 その後、姉ちゃんの身体を襲った衝動しょうどう――というか生理現象。


ケプッ


――え……これは……。


 姉ちゃんの口から漏れ出た音。

 そう、ゲップです。


 現聞先生の方に目を向ける姉ちゃん。

 夕暮れのお堂の中、先生の身体の周りがキラキラと、薄く赤い光に包まれているように見えます。


曖気あいき葬意そういの型……」


 先生が言葉を発した瞬間、姉ちゃんの身体は羽毛が地に着くように、静かに倒れました。


――何、これ? ……力が……まったく入らないっ?!


 姉ちゃんは何か言葉を発しようとしますが、口さえも動かせません。


「ふぅ、久しぶりじゃけど上手い力加減じゃろ? やっぱり若い女の子の曖気あいき美味うまいの~」


――あいき? 合気道……あいきどう……合気道ってこんなんだったっけ?! これじゃあまるで、屁吸へすいじゅつじゃない!


 姉ちゃんは今さらですが、とんでもなく深いふちに、片足どころかドップリと全身がかっていたことを実感したのでした。

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