美穂
次の日,香織は、いつもより早く出社した。早く服部社長に雄二のことが話したかったのだ。
通常より、30分も早く会社に来て,異常に明るく振る舞っている香織の姿を見ると,美穂は、びっくりし,何かがあると察したが,前回とは異なり、仕事に身が入らない状態では無さそうだったので,そっとしておくことにした。
すると,香織がいきなり自分から,社長室に入って来たのである。美穂は、すぐに,椅子を出し,香織が座るように促し,香織が浮ついた表情の訳を話すのを待った。
香織が少し照れ臭く,雄二に告白し,振られたことを話した上で、
「だから,ご安心ください。これで,公私混同になりかねない状況は免れたので。」とはにかんで言った。雄二が自分を振った理由,つまり,美穂に惹かれていることを割愛した。
美穂は、ここまで聞いて,どことなく香織の言動を怪しいと感じた。どう考えても,腑に落ちないところがあった。この間,恋人に振られ,仕事が手に付かないくらい,やる気を失い,沈んでいたのに,雄二に振られたら、自分から特に傷ついた様子もなく報告し,ぴんぴんしている。この後,雄二が出勤したら,失恋相手と顔を合わせることになるというのに…。
「あの…振られたということですよね?」
美穂は、自分の聞き違いなのでは?と思い,確かめた。
「そういうことです。」
香織が明るく返事をした。
美穂は、不思議そうに首を傾げたが,香織のプライベートのことなので、これ以上追求するのを控えることにした。凹んでいるより,ぴんぴんしている方が,仕事に打ち込んでもらえるし,自分にとって都合がいい。
「まあ,最初言ったように,岡田さんは、不真面目だし,きっと山田さんを大事にしませんよ。仕事だって,うまくやっているように見せかけながら,目立たないところで色々と手抜きをしているし,ああいう人はダメですよ。安きについてばかりで、どうしたら自分が楽しく過ごせるかばかり考えていて…。」
山崎さんが言っていたのは,こういうところだったのか。香織は、思わず吹き出してしまった。
「社長も好きなんですね。」
香織が満面の笑顔で言った。
「え!?」
美穂がドギマギした。
「岡田さんのこと。上手くいくといいですね。」
香織は、そう言ってから,社長室を出て行った。
美穂は、その後,どう頑張っても,仕事には集中できず,彼女にしたら,珍しく注意散漫になっていた。
帰宅しても,ワインを飲む気になれなくて,チョコレートを口に入れても,いつもの味はしなかったし,解放感や爽快感を感じなかった。いつものサイトで落語を読もうとしても,文章が頭に入らなくて、笑えなかった。
何をしても,香織の「社長も好きなんですね,岡田さんのこと。うまくいくといいですね。」の一言と香織の応援をしているような笑顔が頭から離れなくて,腹立たしかった。
美穂は、これまで,様々な境遇や素性の人と仕事の付き合いをし,数え切れないほどの逆境に立ち合い,壁にぶち当たり,乗り越えて来た。その中で,平常心を保てなかったことは、一度もなかった。それなのに,どうして,香織の一言に,ここまで心を取り乱し,苛まれるのだろう?ひょっとして,図星だから?
そして,美穂は、この歳になって初めて考えてみた。「人のことが好きって,一体,どういうことなのだろうか?」と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます