それなら明日は笑ってあげる

宇治 音

完結

 改めて見てみると、兄の死に顔はきれいなものだった。


 そう広くない通夜の会場は蛍光灯の白く温かい光に包まれ、真っ黒なスピーカーからは寂しげなピアノが流れている。私は兄が横たわる棺桶の傍らに立って彼を見下ろした。供花を彼の胸元に添え、それから顔をじっと眺めてみた。眠るように亡くなる、なんて言うけれど、彼もまたそうにしか見えない。


 眠りの浅い彼のことだから、揺り起こせば顔をしかめながら目を開けるんじゃないかな、なんて思った。だが、彼の口元に手を持っていくと残酷なくらい冷たくて、一ミリだって動きやしない。名前を呼びかけると、後ろで母の溢れるような泣き声がした。そう大きい声を出したつもりはなかったが、最前列に座る彼女には聞こえてしまったようだ。私は何か言葉を続けようとしたけれど、脳内が白飛びしたみたいに塗りつぶされて何も出てこなかった。あまりに他の参列者を待たせるのも失礼だから、私は兄に手を合わせて下がることにした。母の隣のパイプ椅子に腰かけ、親族を見送る。


 死んでも鼓膜って震えるのだろうか。私はふと疑問に思った。そういうことを尋ねる相手はいつも、兄の神谷一也だった。


 一也が死んでいたと聞かされたのは一昨日の夜で、私はちょうど仕事から帰宅したところだった。玄関を開けると同時に携帯電話が音を鳴らす。設定がおかしくなったのか、随分とけたたましく着信音が響いて、私は扉をそのままに慌ててかばんをまさぐった。

 音といつまで経っても部屋に上がらない私を訝しんでか、夫のあおいが居間からぼさぼさの頭をのぞかせる。フリーで絵を描く仕事をしているあおいは、会社勤めの私と違ってほぼ家にいる。彼は外に出るときはちゃんとした格好ができるが、外に出ないときはちゃんとしないので、気が抜けてしまう。今だって上下ともサイズの大きすぎるスウェットを着ているし、ただでさえくせ毛なのに寝ぐせを直しもしない。


「千早さん、何してるの」


「スマホが出てこないの。悪いけど、ドア閉めてくれない」


 彼は右足を出したままのスリッパの上に置き、上半身だけ外に乗り出して扉を閉めた。ようやく目的のものを取り出し画面を確認すると、「父」と表示されている。私は即座に碌な連絡じゃないだろうと分かった。父は滅多に電話なんてしてこないからだ。画面を横目で見たあおいも表情が少しだけ硬くなる。コールが途切れるぎりぎりで応答のボタンを押し呼びかけると、重苦しい父の声が聞こえた。


「落ち着いて聞け。一也が……」


 次に出てきた言葉にあおいは思わず大きな声を漏らしたが、私は大して動揺することはなかった。代わりに「遂にか」と言いそうになって、私はそちらに驚いて急いで口を押えた。


 一也は自殺していた。それも恋人の女性と一緒に、だ。三日も勤め先を無断欠勤するので家を訪ねた一也の同僚によって発見されたという。すぐにでも一也の部屋を見に行きたかったが、父によれば現場検証だの検視だのが必要で、既に警察によって立ち入り禁止になっているらしかった。あとになって聞くと、数え切れないほどの睡眠薬と酒の缶が散らばっていたとかで、要は服毒で心中したというわけだ。


 これ以上は直接会ってから話すべきだろうと判断し、父から簡潔なこれからの予定を聞いて電話を切った。続いて会社に連絡をする。それからクローゼットの端から喪服を取り出し、葬儀に向けて準備を始めた。しばらく私とあおいは無言だったけれど、やがてあおいが自身の喪服からクリーニング屋のビニールを剥がしつつ口を開いた。


「怒ってるの?」


「……どうして?」


「千早さん、何かいらいらしてるから」


 私は棚から数珠を取り出す手を止めた。できるだけ間があかないうちに私はあおいに振り返る。


「数珠をむき身で仕舞う人がある?」


「あー、それはごめん。でも、その前から不機嫌だったじゃん」


 断固として譲らないので、私は一度大きく息を吸って、それを吐き出した。悪いものを逃がしたくて。あおいは私より三つ歳が下だけれど、どうも洞察力があるというか、隠しているはずの私の心のうちを見抜いてくる。たとえこの場にほかの人がいても、私に「怒ってる?」なんて邪気もなく訊くことはできないだろう。けれど同時に、あおいはそれを無遠慮に指摘するような人でもない。彼は感情の機微に敏感だから。


 私は居間のテーブルに置いていた煙草を一本手に取り、何も言わずに台所にある換気扇の下に向かった。あおいは私についてきたかと思うと、床に膝を抱えて腰を下ろした。ぎょっとしてしまう。あおいは煙草を吸わない。従って私が煙草をくわえるとき、私は一人になるはずなのだ。こんなことは初めてだった。座り込むのは極力、副流煙を浴びないための工夫だろうと思われる。どれほど効果があるのかは分からないけれど。


 あおいは私を見上げる。私は女にしては身長が高いので、彼の首はちょっとつらそうだ。


「やめなよ」


 私は煙が落ちるかもしれないことや、床の掃除が行き届いてないことを言いたかったのだけれど、彼は確固とした目的でそこにいることを決めたようだった。


「だって、怒ってるときに煙草を吸うところは初めて見た」


 私は徐々に、あおいにすら苛立ちを覚えた。普段ははっきりものを言うのに、気を遣っているのかこういうときに限って遠回りだ。いっそ、彼から観測できるものを全部口から垂れ流して暴いてほしかった。ライターのやすりに八つ当たりをしながら煙草に火を入れると、私の寿命が葉っぱを伝い、一秒ごとに流れ出していく。立ち上る煙が濃くなれば濃くなるほど、逆立った気分が元に戻りだした。


 確かに、私は腹を立てていた。一也の死に方が気にくわなかったのだ。


 一也は昔から死にたがっていた。私にとっても二十数年いじょう前のことだからはっきりとは覚えていないけれど、小学生の頃には既にそんなことを言っていた記憶がある。


 私にとって、一也は何ひとつ世界に引け目のないような男だった。いつだって背の順で並べば最も後ろを陣取っていたし、目鼻立ちだって絵に描いたよう。かといって容姿だけの人間ではなく、大学だって名前の知られているところに入った。平均から大きく外れることなく生きてきた私にはできすぎた兄だった。


 私が一也から直接その言葉を聞いた夜はとても寒かった。中学校に上がるまで私たちは一軒家の二階、広い部屋にベッドを二つ置いてそこを子ども部屋としていた。あれは二時だったか十二時だったか、冷たい風に目を覚ますと、一也は窓を開けてベランダに出ていた。眠いために無視しようか悩んだけれど、柵の隙間から下を覗く一也がなんだか危なっかしく見えて、私は布団から抜け出て声をかけることにした。私が背後にいることに気づくと彼は大げさなほどに肩を跳ねさせて、それからまた下を見た。特に何かがあるわけじゃなくて、彼は地面という概念を眺めているようだった。実際、月明かりのないその日は暗闇が地面に滞留していて濁っていた。


 それでも彼の行為には意味があるように見えて、彼に倣ってみることにした。一也のおさがりである青色のパジャマは私には大きすぎて、袖口や胸元から風がひゅうひゅう入り込んでくる。寒くて、独房の格子を揺らすように柵を掴む一也の手に触れた。私よりずっと熱がない。いったい、いつからこうしていたのだろう。


「生きるのがくるしい」


 力を緩めたら手に持ったガラス細工が落ちるみたいに、一也は薄い唇をわずかにだけ開いて呟いた。ずきり、と心臓が痛んだ。破片が刺さったようだった。彼は目を閉じて、「いつ死んでもいいんだ」と続けた。私はなんと言ったら分からなくなって、


「死なないで」


 と彼の細い腕にしがみついた。そうしないと、今にも飛び降りてしまうのではないかと思った。一也は静かに目を細めて、


「千早は死んじゃだめだよ」


 と言った。


 かわいそうな一也。一也はいつも何かに怯えているようだった。厳格な父か。心無い他人の悪意か。一体全体、なぜそれらが、文字通り死ぬほどに恐ろしいのか理解ができなかった。けれど、どんなときだって彼を理解してあげたかった。そのくるしみの暗所から引き揚げて、崖の上に連れ出したかった。割れた器のかけらを丁寧に溶接して、元に戻したかった。


「俺の怯懦が悪いだけでしかない」


 しかし私が何もしなくても、私が成人する頃には、一也は差し当たりの答えを出し

ているようだった。


「俺自身が弱いのが問題なんだ」


 一也は時折、こういう言葉を綴った手紙を私に一方的に送っていた。どうすればいいのか分からなくて尋ねたら、


「聞いてくれるだけでいい。千早が読んでくれたらそれでいいんだ」


 と、なんだか責任を取ってくれなさそうな返事だった。


「ここではないどこかに行きたい」


「どうしようもない」


「誰かに許してもらえたらそれでいい」


 実際はもっと複雑で、兄からの手紙というより随筆でも読んでいる気分だった。彼は活字を浴びるように摂取していたから自然とそうなったのだろうけれど、その末にでてきた言葉は私には不満だった。彼にとっての薬は活字であり、薬を飲んでいるのは病気を治すためであるはずだ。悪いものは自分と切り離して、その部分だけを治療するべきなのに、彼は自分のもっと奥深くに原因があるのだと信じて疑っていないようだった。否定したかったが、彼の言葉を否定することは彼の全てを否定することだ。私はやはり、正しいことは何も言えないままだった。


 普通の人にとって死は真っ暗で、絶望的なものだ。姿かたちはなくなって、ただ無だけが鎮座している。しかし、一也にとってはまるで反対なのだ。ここではないどこかへ行くための、唯一無二の希望。


 傍から見れば、一也は少々おかしい。だが、私にはそのおかしさが途轍もなく愛おしかった。だから、服毒で心中なんて、そんなつまらない最期は迎えないでほしかった。


「それで腹を立てたの?」


 いい加減に首が痛くなったのか、あおいは私の足元に視線を落としていた。私はさんざん悩んでから、控えめにかぶりを振った。


「たぶん、それだけじゃない」


「というと」


 私は一瞬、明文化するのを躊躇った。言い訳がましく「変だとか思わないで」とあおいに縋ると、あおいは「今までもこれからも、千早さんは変じゃないよ」と言った。私は少しばかり安心して、煙草の灰を灰皿に落とした。


「御堂美優、にも怒ってる」


 一也といっしょに死んだ、一也の恋人。歳は、あおいと同じかもうひとつ下。


「この世に心中なんてものはない、あるのは自殺の死体と他殺の死体である」


 あおいは立ち上がり、すぐ近くにあった冷蔵庫を開けた。冷凍食品のパスタを二袋取り出し、片方を皿に移して電子レンジに入れる。


「誰の言葉」


「さあ。覚えてない」


 解凍の時間を調整しつつ、あおいは肩を竦めた。


「千早さんが言いたいのはそういうことなの?」


 どうだろう。私は目を伏せた。遺族を気取りたいのだろうか。よくも兄を、と御堂美優に掴みかかりたいのだろうか。それはある意味では正しい主張のように思われた。火を灰皿に押しつぶして、私は電子レンジの中身を流し見した。


「晩ご飯、今からでも作るべきだったんじゃない」


「俺は早く寝たほうがいいと思うけど」

 重苦しい空気に似つかわしくない軽快な音楽が鳴って、レンジの動きは止まった。


肉親が死んでも生活は続くと思い知らされたようだった。


「ねえ、あおい」


「なに」


「どうして一也は、私に何も言わなかったのかな」


 あおいはそれに答えず、庫からパスタの皿を取り出して私に手渡した。

 あらかたの準備を済ませた後は、あおいの言うとおりにさっさと布団に入ったけれど、思うようには寝付けなかった。ようやく睡魔が来た頃には空が白み始めていた。



 葬儀場についたのは昼前だった。通夜と告別式が行われる一階の会場はすでに準備が整えられていて、父が斎場の人と何か相談をしている。ここにある色は白か黒か紫で、その薄さに全体がのっぺりとして見えた。ふと、祭壇に供えられた生花のなかに、一也が勤める会社の名前が入ったものがあった。ここにあるもので、たぶんあれが最も黒いに違いない。


 私とあおいは父たちに軽い挨拶をして二階に上がった。控え室に喪服に着替えに、それから荷物を置くためだ。階段を過ぎて突き当りの左にあった襖を開くと、テーブルを挟んで向かい合わせに座っていた母と男性二人がいっせいにこちらを向いた。顔は知らなかったが警察だろうと直感的に分かった。


「妹の千早です」


「神谷千早さん」

 五十代くらいだろうか、年配のほうの男性が確認を取るように言った。今は戸籍上あおいの姓だが、こういう場合は旧姓で呼ぶものなのだろう。二人が同時に頭を下げたので、私も慌てて頭を下げた。


「御堂美優さんのことで」


 荷物も下ろし終わらないうちに若いほうが身を乗り出してきた。あおいが居心地が悪そうにしているので、私は整理を彼に任せて母の隣に座った。


「そういうことは御堂さんのご遺族に聞くものでは」


 出た声は機械的に読み上げたような声で、自分でも驚いた。刑事だという年配の男性はそれを感じ取ったようで、彼は声を硬くした。眉間には深いしわが刻まれている。


「その上で伺う必要がある。彼女が一也さんとどういう関係だったか」


 なるほど、これがあおいの言っていたことか。母の顔をちらりと見ると、不安の滲む瞳が私に助けでも求めるように揺れていた。恐らく母も同じ質問をされたが、何も答えられなかったのだろう。この目だ。一也はこの目が嫌いだった。母のヒステリーを恐れていた。私は机に視線を落とし、記憶を手繰った。


「……私も、詳しくは知りませんが」


 不思議なことに、一也は御堂美優について手紙に書くことはほとんどなかった。た

ぶん、彼女についてことばにする必要が無かったのだろう。初めてその名前を聞いたのは、三年前の春だろうか。理由は大したことのないものだったが、一也に電話を入れなければいけない用事があった。彼は一人暮らしを始めたころには私より両親に何も言わなくなっていたので、私は伝言係にならざるを得なかったのだ。一也が生きられているか不安だった私は、本題もそこそこに近況を尋ねた。いつも通りだ、という言葉が返ってくるのを予想していた私は耳を疑うことになる。


「恋人ができた。もう一緒に暮らしてるよ。美優ってひと」


 あまりにもさらりと言うので、妙に腑に落ちてしまった。たちの悪い冗談かと疑い

もしたけれど、一也は冗談を言うのも言われるのもとにかく下手くそだったから、あり得なかった。それからは電話するたび、一也の口からは彼女の名前ばかり出るようになった。普段は無口とまではいかずともおしゃべりな人じゃないのに、一也は彼女の話になるといやに饒舌になった。髪が長いとか背はそれほど高くないとか、聞いてもいないことをべらべらと述べたがる。挙句の果てには「彼女はかわいい」なんて言い出す始末だ。一也はたびたび女の子と付き合っていたけれど、そんなこと一度だってなかった。


「美優は、俺を許してくれるんだ」


 いつか、一也は電話越しに笑った。ずいぶんと久しぶりに聞いた明るい声色だっ

た。


「ここじゃなくても、きっと一緒に生きられる場所を探すって」


 御堂美優の顔は知らない。会ったことはないし、会いたくもなかった。それに、私には卑小な思惑のようなものが腹のうちにあった。一也の死への渇求は常人のそれじゃない。今までの女の子だって、彼の激情に耐えられなくなったから、彼から離れていったのだ。御堂美優だって、しばらくすれば一也に怯えて去っていくに違いない。


 だがその見込みとは裏腹に、一也は相変わらず彼女への想いをたびたび口にした。


 一度だけ、御堂美優の声を聞いた。一也への電話を、彼女が取ったのだ。


「もしもし」


「ごめんね。一也、スマホ忘れて出かけちゃったの」


 息を呑んだ。間延びしたようだが、かわいらしい声。少女のようにも私と同じくらいにも聞こえた。これが件の女か、と思った。


「もう二時間もしたら、帰ってくると思うから。かけ直してあげて。じゃあね」


「ま、待って!」


 考えるより先に口が動いた。彼女は「なあに?」と不思議そうに言う。


「美優、さんでしょ。私、一也の妹の」


「千早さん。知ってるよ」


 一也ってあんまり他人の話をしないんだけど、あなたの名前はたまに聞く。そう言われ、自然と口角が上がった。だが、御堂美優と対話していることへの動揺は続いていた。対する彼女は毅然とした態度を崩さなかった。


「よかったら、話さない。一也、自分のことも全然教えてくれなくて」


 彼女は私の脇の甘い考えをあっさり見透かして、退屈そうに小さくあくびをした。


「でも、ときどきあなたに手紙を書いてるじゃない。読んでないの」


「読んでるに決まってるでしょ」


 返事が早すぎたかもしれない。美優は鼻で笑う。


「じゃあ、知ってるのね。一也が死にたいこと」


「……知ってる。ずっと昔からそう」


「それなら何も聞く必要はないんじゃない?」


 しばらくの間の後、がらがらという騒音がスピーカーから響いた。それから、たまにマイクを叩くような音が入る。ベランダにでも出たのだろうか。


「わたしは彼が好き。それは殺したいってことと同義じゃない。だけど彼が望むなら、胸に包丁を突き立てるでも、首を絞めるでも、あるいは同時にマンションの屋上から飛び降りるでも、何でもしてあげたいと思ってる。彼がわたしについてきてほしいならもちろんついていくし、呪いみたいにわたしたちに纏わりつくこの世界に留まってほしいならそうする。わたしは、彼の全部をあいしてるから」


「……冗談でしょ」


 美優は無言だった。けれど、肯定ではないことは分かった。彼女は心底、私を軽蔑していた。


「もう話すことはないね」


「……ええ」


 通話の終了ボタンを先に押したのは向こうだった。私は茫然自失のまま、携帯電話の画面を見つめ続けていた。


 私が話し終わると、刑事たちは顔を見合わせた。それと同時に襖が開いて、父が母を手招きした。なにか話があるらしい。母が立ち上がるのに刑事二人も続き、私に再び礼儀として頭を下げた。人が大方出払って、ようやく舞い上がった埃が落ち着いたとき、あおいが私の左に座った。母が座っていなかったほうだ。


「ずっと隅で縮こまってたね」


「人見知りなの知ってるくせに」


 あおいはテーブルの上に置いてある茶菓子の盆からチョコレートを取り、包みを解いた。そのまま食べるのかと思いきや、私の手に包みごとチョコを握らせる。


「待ってる間かばんの中見てたんだけどさ、煙草持ってくるの忘れちゃった」


「うそ、直前にわざと荷物から出したでしょ」


「だって、たぶんこれ以上ないくらい吸うだろうなって思ったから」


 身体に悪いよ、甘いもののほうがいいよ、とあおいはもう一個チョコを取り、今度は手早く自分の口に放り込んだ。強引に渡されたこれをどうしようか悩んで俯いていると、あおいは私の顔を覗き込んだ。


「御堂が一也さんを殺した、って思ってるんだ」


「……現実、そうじゃない。合意なら自殺教唆していいわけじゃない」


「それはそうだね。でもさ」


 あおいはビニールの包みを伸ばし、それを覗き込んだ。くしゃくしゃのビニールには、景色が歪んで移る。


「一也さんって、俺や千早さんから見たらズレてたわけじゃん。その御堂って女の人もきっとどこかズレてて、俺たちにはわからないなんかがあるんだよ」


 そういうものだろうか。私は一也の顔が見たくなって、彼が寝かされている小部屋に向かった。被せられた白い布を取ると寝ているみたいで、まだ泣く気にはなれなかった。



 通夜は二時間もないくらいだったけれど、坊主の読経も法話も、喪主である父の参列者への挨拶も耳に入ってこなかった。ずっと、一也の写真を睨んでいた。私の結婚式のときに撮った家族写真。一也は写真を撮られるのが嫌いで、それらしいものは実家に一枚もなかったからだ。この写真の一也は、本当に嬉しそうに笑っている。


 親族と一般の参列者は私たちや両親に悔やみを述べ、明日の時間を確認した者から帰っていく。無神経な親戚などは一也の死に方を揶揄するようなことを小さい声で喋っていたけれど、周りが嫌な顔をしたので、すぐにやめたようだった。


 人のいなくなった斎場は既に暖房が切られ、しんとしていた。父と母は係に呼ばれてどこかに行った。明日の打合せでもしているのだろう。入り口が開いていたために侵入してきた夜の冷たい風がまだ上に残った暖かい空気と混ざってなんだか気分が悪い。顔をしかめると、ずっと横についていてくれたあおいが悲しげな顔をしたので、私は首を横に振った。祭壇の前まで進み、棺桶に手をかける。明日の今頃には、もう一也の顔は見られない。


「一也」


 自分の心臓の音が耳のそばで聞こえた。


「どうして私に何も言ってくれなかったの。手紙のひとつだって書かなかったの」

 手に力がこもる。いっそ殴ってしまいたかった。そんなことをしても何の意味もない。それでも私は、感情の矛先を見失っていた。


「私はここで生きていてほしかったのに!」


「千早さん」


 あおいが私の肩を叩いた。落ち着かせるために冷静な声を作っているのかと思った

が、彼はもう一度同じ調子で私の肩を叩いた。あおいを見ると、彼は私の視線を後ろに誘導する。促されるまま顔を向けると、両親が目を丸くして立ち竦んでいた。


「警察の人が来た。一也の部屋から出てきたそうだ」


 そう言って、父は白い封筒を私に渡した。震える手を、あおいが優しく包んでくれる。封筒を裏返すと、私への宛名と、「彼女以外は開封しないこと」と注意書きがなされていた。


 私は翻って、一也の顔を見た。それから中身を取り出す。


 千早から見れば俺は死んでしまったのかもしれない。けれど、俺と美優が生きる場所がお互いのなかになるだけだから、祝って送り出してほしいと思う。


 私はようやく理解した。私は、一也を何も分かっていなかったことを。


「一也!」


 私はこらえ切れなくなって、顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。喪服にファンデーションがつく。あおいが私と同じようにしゃがんだ。


「ねえ」


「千早さん」


「私、一也に生きていてほしかった」


「そうだね」


「言えなかったんだ」

 ずっと、何も言わなかった。言うべきであることとそうでないことをはき違えていた。御堂美優は彼の求める言葉をすべて与えたのだ。私では、彼の生きる場所にはなれない。


 あおいはこの世に留めるように力強く私の肩を抱いた。一也が呪われ、呪い続けていたこの世に生き続けるしか、私にはない。


「千早は死んじゃだめだよ」


 開いたままの入り口から、ひときわ冷たい風が流れ込んでくる。あの夜、初めて一也からその言葉を聞いたときに刺さったガラスの破片が今も心臓に深く深く突き刺さっている。


 あの夜の呪いは、私を生かし続けるのだろう。

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