第2話 淑女教育をやり直しましょう


 以後マリュアンゼは、淑女教育のなんたるかを再再々……教育を絶賛強制受講中である。


 ちくちくと刺繍なんぞに勤しみながら、母は父より強いと信じているマリュアンゼは内心首を傾げる。何故父は母と結婚したんだろう────と。


 淑女のなんたるかを一通り学んできたマリュアンゼは、母が貞淑な淑女と言われると困惑する。……母を見習い、良き夫人とは────主人を尻に敷き、時にはしばき倒して家を支える者だと解釈してきたのだ。なので淑女教育を受けながらこれは何の役に立つのだろうと、疑問ではあったものの、とりあえず目の前の母を見習って来た……つもりだ。


 マリュアンゼは別に出来の悪い子では無かった。

 だから何度か受けた授業も特に教師から問題無いと評され合格する。

 マナーも刺繍も、なんなら歌や絵画も得意で造詣も深い。

 ただ運動の方が好きなだけだ。


 世が世なら、或いは、性別が逆ならば文武両道と褒めそやされていただろう。けれど、ここではマリュアンゼは脳筋残念令嬢だ。頭は悪く無いが、鈍感なので脳筋なのだ。


「相変わらず見事なお手です、レディ」


 何故何度も呼ばれるのだろうかと、事情を知らない教師は、今日も首を傾げる。


「ありがとうございます」


 マリュアンゼも、見かけは普通の貴族の令嬢だ。

 着飾って大人しくしていれば、淑女にしか見えない。

 しかも今は婚約破棄に悩む、その表情は物憂げで……見栄えも悪くなかった。


 教師は詳しく事情を知らないとは言え、彼女が婚約破棄をされたのは知っていた。けれど彼女の何が気に入らなかったのだろうかと、不思議で仕方なかった。

 親戚筋の誰かを紹介しようかと気を遣うものの、それは止めた方がいいと、後日夫に止められる事になる。


「それでは私はそろそろ帰ります」


「ええ先生。ありがとうございました」


 丁寧なカーテシーにも合格と、満足気に頷いて教師は退室して行った。


「お母様は私をどうしたいのかしら……」


 思わずひとりごちる。

 多分猫を被って欲しいのだと、お付きの侍女は何度かアドバイスしている。しかしその感覚はマリュアンゼに伝わらず、段々と面倒になってあまり口にしなくなった。


 口を酸っぱくして助言するというのは、或いは苦言を呈すると言うのは、与える方もエネルギーを使うものだ。受け止めて貰えなければ、言う方もあまり口にしなくなる。


 そんなマリュアンゼにもどかしく思うものの、彼女はそれ以上に持ち合わせた不思議な魅力で、愛される量の方が多かった。

 結果甘やかされ、現在に至る。

 そして夫人は嘆く。


 マリュアンゼの父は昔騎士団に属していた、世に言う栄誉団員というヤツである。今は身体を壊して書類仕事に勤しむ日々を送っている。

 マリュアンゼは父に似ている。脳筋の癖に記憶力がとても良い。その為型通りの勉学や、判で押したような仕事は問題なくこなせる。……これが出来て何故これが分からない? という類稀なる人種。それがアッセム父娘。常人には理解出来ず、イラッとさせられる。


 コンコンと言うノックと共に入ってきた人物はこの家の三人目の脳筋、マリュアンゼの兄である。否、この場合二人目が兄で三人目がマリュアンゼだ────どうでもいいか。侍女は人知れず嘆息した。


「マリュアンゼ、婚約破棄されたんだって? 良かったな! あんなもやし野郎、俺は気に食わなかったんだ」


 兄アーノリルズは嬉しそうに顔を綻ばせる。

 マリュアンゼは困った顔で兄を|窘(たしな)めた。


「お兄様、お母様に聞かれたら叱られますよ」


 この政略結婚の事業の立ち上げは、母がやっているものだ。勿論名前は父名義だが、実質的な事業掌握は母である。

 アッセム家は優秀な人間が多い。本来ならマリュアンゼもその内の筈なのだが、ズレている為数に入らない。


 兄もまた優秀だ。

 熊みたいな体格で豪快な人柄だが、領地経営の手腕は丁寧かつ迅速。因みに彼は見掛け倒しでそれ程強く無い。実はジェラシルの事はあまり言えない。マリュアンゼは内心で苦笑した。


 兄がジェラシルを嫌っていたのは知っていた。

 彼は見目が良い。そして騎士団で花形と言われる近衛騎士に従事している。細身で程よくついた筋肉と、気品ある身のこなしは妙齢の令嬢の注目の的であった。


 マリュアンゼはそんな令嬢たちによく貶められていたものだ。運動神経が良いので、水を掛けられた事も突き飛ばされた事も無いし、幼稚な悪口は退屈で、意にも介さなかったけれど。


 ついでにジェラシルは令嬢たちにモテる事が好きで、こっそり浮気をしているのも知っていた。モテる男は仕方無いのだとマリュアンゼは思っている。そして貴族というのはそんな上辺だけの清濁を併せ持った者たちだと言う事も、脳筋であるが故に感覚で理解していた。


 だからマリュアンゼはジェラシルを愛してはいなかった。

 それをすれば自分が傷つくだけだという事くらい、言われなくても分かっていた。


 けれど兄は妹を蔑ろにするイケメンに反発心を持っていたようで……少なくとも兄はジェラシルよりも妹を大事に思ってくれる人だから。


「お兄様、今日はどうしたんです? お休みを取って子どもたちと遊ぶと仰ってませんでしたか?」


 兄は既婚者だ。可愛いお嫁さんと双子を目にする度に、彼の顔はやに下がっている。

 そうして首を傾げるマリュアンゼに兄は気まずそうに顔を歪めた。


「実はお前に頼みがあるんだ」


 そう言ってアーノリルズは頭を掻いた。



「実は友人にお前の優秀さを話したら興味を持たれてな、実験に協力して欲しいそうだ。で────」


 兄は友人に上手い事言いくるめられ、妹を人体実験に差し出す約束をしてしまっていた。

 本人たちは気づいていない、その会話の中身を部屋の隅で聞いていた侍女は、胡乱な目で「脳筋」と口にした。

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