右の頬を打たれたら左の頬を打てばいい
遊月奈喩多
第1話 遠く、遠く、それでも傍に―茉央―
バイト先の先輩・
部署ごとに設置されているホワイトボードに張り出されていたのは、河西さんと小野さんがふたりでラブホテルから出てくるところを写した写真。お互いに寄り添い合って、とても何もなかったなんて言われても信じられないような距離感だった。他にも、いわゆるデートコースをふたりで訪れている姿や、果ては河西さんがひとりで住んでいる部屋の窓辺で……なんていう写真まで。
もちろん、お互い大人だ。
「なんかあるとは思ってたけど……」
「道理でやたら目をかけられてると……」
「社員からの“ご寵愛”受けてたんだね……」
出会いもなければ刺激もない、毎日同じ繰り返しばかりの職場では、こういうスキャンダルは大きな話題になった。特に、河西さんが若いながらにどんどん仕事をこなして、その働きぶりを評価されたりしていることの多い人だったのも、話題に拍車をかけた。
もちろんそれは河西さん本人の頑張りによるものだって、私にはわかってる。けど、それを面白くないと思っていた人も少なからずいて、そういう人たちにとっては今回のことは大いに話を盛り上げる肴になったみたいだった。
私はというと、もう頭が真っ白で。
もう彼女を嘲笑うとか庇うとかそういうことじゃなくて、もう何がなんだかわからない気持ちで頭がいっぱいで。
でも、ひとつ確かなことは。
その瞬間のわたしの頭には、ふたりの関係が信じられなくて現実感がないのと同時に――河西さんが小野さんの前で見せたであろう顔が、浮かんでしまっていたということだった。
どんな顔をしていたのだろう? 恥ずかしそうに目を伏せたりしたのかな? それとも、昔好奇心に駆られて友達同士で見たAVみたいな、蕩けきった顔? どれを想像しても、やっぱり普段の自信満々にわたしの前を歩く河西さんとは重なりそうになくて。
そういう姿を幾度となく想像せずにはいられない自分が恥ずかしかったし、本当に嫌気が差した。
* * * * * * *
「河西さん……?」
「ん、どうしたの、
そんなことがあってから数日後、わたしは喫煙所でひとりぼんやりと座っている河西さんを見かけた。普段はこんなところ来ないのに、煙草を吸いながら携帯を見つめている彼女にどことなく違和感があって、思わず声をかけずにいられなかった。
「いいの、こんなとこ見られたら南風さんもなんか言われちゃうかもよ?」
少し疲れた顔で笑う河西さんの隣に座って、「別にいいんですよ」と呟く。隣に座ったとき、ふわ、と漂ってきたシャンプーのフローラルな香りがまた、わたしの中で膨らんでいく。
どんな顔でキスするの?
どんな風にその身体を震わせるの?
どんな声で人を誘うの?
頼り甲斐があって、仕事に慣れてなかった頃のわたしを何度も庇ってくれた、小柄だけど大きく見えたはずの背中は、もう薄暗い部屋で汗まみれになった姿に上書きされてしまう。
河西さんも誰かとエッチするような人なんだって思っただけで、わたしの中の何かがおかしくなってしまいそうで――壊れていくような気がして。
「これからどうするんですか?」
いっそ何もかも失っちゃえばいいのに。そう思いながら、尋ねた。だってそうしたらきっと、今度こそ彼女は…………。
少し重く淀んだ空気を入れ換えるように窓を開けながら、軽い声で答えを返してきた。
「まだもう少し傍にいといてあげようかな、だって……」
意味ありげに言葉を切ったその先を、とても聞こうとは思えなかった。河西さんも言おうとはなかったし、きっと言いたくないことだったのかも知れない。
もう、ぐちゃぐちゃだった。
全部なくしたら、まだ優しくし続けているわたしを求めてくれるんじゃないかとか、そういうことを考えてしまう汚さも、そこまで
このまま壊れてしまえたら、楽なのかな?
ううん、もしかしたら、もう……。
きっと今夜もわたしはひとりきりになってから彼女を心のなかで穢してしまうのだろう――そう思ったら、申し訳なさと後ろめたさに、頬が緩んだ。
右の頬を打たれたら左の頬を打てばいい 遊月奈喩多 @vAN1-SHing
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。右の頬を打たれたら左の頬を打てばいいの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます